高橋是清

 大正から昭和初期にかけて大蔵大臣を7度経験し、大胆な財政政策で日本の経済危機を何度も救ってきた高橋是清(1854年9月19日~1936年2月26日)。その高橋のインタビューが「ダイヤモンド」誌の1930年12月21日号に掲載されていた。インタビューのテーマは「僕の感心した人物」。高橋は第3代日本銀行総裁だった川田小一郎との思い出を披露している。


 若き日の高橋は実に波乱に富んでいる。ヘボン塾(現明治学院大学)で英語を学び、米国に留学するも、間違って奴隷契約書にサインして労働者として売り飛ばされたり、帰国後は初代文部大臣を務めた森有礼の書生を経て英語の教官になるが、放蕩生活に明け暮れて職を転々としたり……。それでも英語力を買われて農商務省に入り、30代で初代特許局長という要職に就くのだが、ペルーの銀山開発のもうけ話に乗せられて、あっさり官僚を辞めて現地に赴く。ところが銀山はとっくに枯れていて、わずか3カ月で帰国。全財産を失ってしまう。

 そんな高橋を救ったのが、川田だった。失意の高橋に声を掛け、日銀本館新設工事の建設事務主任として登用したのである。


「川田さんはわしの失敗の事情をつぶさに聴かれた後、面倒を見てやろうとおっしゃってくださった。いわば……なんじゃ、川田さんは、わしの命の恩人とも言うべき人じゃ」と高橋は述べている。

 土佐藩出身の川田は、藩から引き継いだ海運商社「九十九商会」で、社主を務めた岩崎弥太郎(三菱財閥の創始者)の右腕となった人物。実業の道で成功を収めた後に日銀総裁に就任した。決して財政に関する知識や経験があったわけではないが、さまざまな分野から有能な人材を集めることに力を注いだ。その一人がまさに高橋だったわけだ。

 高橋も記事内で、「有為の人物を養成して、他日、国家のため、役立てねばならぬと思った」という川田の言葉を引用しているが、高橋以外にも郵便汽船三菱会社(現日本郵船)から山本達雄を引き抜いたり、外務省から河上謹一、鶴原定吉、他にも大蔵省や海軍などから、藩閥や門閥も関係なく俊英たちを集めていったのである。


 記事の最後に高橋は、日銀ストライキ事件(1898~99年)に触れている。第5代日銀総裁となっていた山本に反発し、幹部たちがストライキを起こし、次々に辞めていった事件だ。その多くが川田が招聘した人材だった。もっとも、事件を機に日銀を去った幹部たちは関西でそれぞれ活躍したというところに、明治期における経済界の躍動感が伝わってくる。

 そして高橋は、1929年10月の世界恐慌の影響で日本経済が危機的状況にあった31年末、まさにこのインタビューのちょうど1年後に犬養毅内閣で4度目の大蔵大臣に就任。金輸出再禁止、紙幣の金貨兌換停止による円安誘導、低金利、財政支出拡大の積極政策によって、デフレからの脱却を見事に果たす。36年に二・二六事件で暗殺されるまで、高橋はダイナミックに日本経済のかじ取りを行った。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

僕の感心した人物
川田小一郎さん

1930年12月21日号

1930年12月21日号より

 わしがペルーの銀山事件に大失敗をやって、命までも捨ててやろうかと覚悟したときじゃった。当時の日銀総裁川田小一郎さんから、ちょっと来いという使いを受けた。早速お訪ねすると、川田さんはわしの失敗の事情をつぶさに聴かれた後、面倒を見てやろうとおっしゃってくださった。

 これがわしの実業界入りの第一歩じゃった。こうしてわしは日本銀行の建築所の事務をやることになったのだ。いわば……なんじゃ、川田さんは、わしの命の恩人とも言うべき人じゃ。

 川田さんはかつて、しみじみこう述懐されたことがある。