各国の文化や言語を比較するときに、ハイコンテクスト/ローコンテクストという物差しで見る見方があります。「何でも言葉にしなければならない諸外国と比べて、言外の意図を読み取ることにたけている」として「日本はよりハイコンテクストな文化だ」などと言われますが、AIの“意図”をくまない、読み取らない国民性を見ていると、実はそうでもないのではないかという気がします。人間により近づいてくるAIに対面し、そのAIにきちんと意思を伝えようとするとき、こうしたコンテクストの理解度がどの程度なのかが、初めて分かるのかもしれません。
今後、機械の進化は人に合わせる方向に続くはずですし、続かなければなりません。ただ、人がどう機械に合わせるかを考えてみることは、人と人とのコミュニケーションを考える上でも、よい題材となるのではないかと思います。
人が機械に合わせられれば
より利便性が得られ、能力が発揮できる
社会にAIやセンサーの普及が進むにつれ、人はますます、インテリジェントな機械との共生が求められるようになります。ディストピア的には捉えてほしくないのですが、人間が機械に合わせ、全体で社会システムができあがるとき、人間はそのシステムの一要素になっていくという考え方もあります。そこでは、社会システム全体を機能させるために、人間が機械に対してどう振る舞うべきかという話も、たくさん出てくるでしょう。
人がシステムに合わせるというのは、現実に今でも起きていることです。例えばウーバーがアメリカで提供する相乗りサービス「UbERPool(ウーバープール)」では、利用者がクルマに乗る場所をシステムに指定されます。そこへ歩いて行くと、ほかの人を乗せたドライバーとちょうどいいタイミングで落ち合うことができるのです。このため現在地で動かずに配車を依頼するより、安い料金でサービスを利用できるという仕組みです。つまり、人間が社会システムの中に組み込まれた形で動くことで、利便性を享受できるようになっています。