社会課題に果敢に向き合う若きリーダーの情熱と使命感は、どのように育まれてきたのか。今回は、日本に住む“難民”が、この地で第二の人生を歩むための環境づくりに挑むNPO法人WELgee(ウェルジー)の渡部カンコロンゴ清花代表。類いまれな行動力とコミュニケーション能力の秘密は、少女時代の多様性あふれる環境にありました。(聞き手/ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

両親の離婚とNPO設立
居場所失った子が自宅に

渡部カンコロンゴ清花・NPO法人WELgee代表Photo by Masato Kato 拡大画像表示

──ミカンで有名な静岡県三ヶ日町(現浜松市)の出身ですね。

 はい、周りはほぼミカン畑という田舎育ちです。

──どんな子供でしたか。

 4月生まれなので他の子よりも成長が早かったかもしれません。幼稚園では、先生が本を読んでくれるより自分で読んだ方が早いし、つまらないから最初の1カ月で「もういいや」と勝手に家に帰ってきていました。母が通わせようとするのを、電信柱にしがみついて抵抗したのを覚えています。

──幼い頃の憧れの仕事は?

 看護師です。元々、母が看護師だったのと、父方の祖父がプロテスタントの牧師で、父も日曜学校の先生などをしていたので、日曜の朝は半分寝ながら教会に通っていましたが、その近くにホスピスがあって、そこで働く看護師の方々を見ていたので、身近な職業だったのだと思います。

 教会は好きでした。手と足がなく電動車椅子に乗ったパラリンピックの選手とか、知的な障害があるお兄ちゃんやお姉ちゃんとか、学校では会わないようないろんな人に会えるからです。

──子供のときから多様な人たちと接していたんですね。

 都会の、裕福な家庭、地域で育った人たちと話をしていると、みんな親は大卒で、友達の親の職業も大体似ていたといいます。

 それに比べると私の小学校時代はダイバーシティーがありましたね。田舎の小さな小学校ですが、ピラミッド型社会の一部だけを切り取ったような構成ではないので、親がいる子いない子、農家の子もいれば大学の先生の子もいるし、両親の国籍が違うミックスの子も、障害のある子もいました。

──お父さんはNPOを運営されているそうですね。

 そうなんですが、それは2人目の父です。私が小学4年生のときに両親が離婚しました。

 大人の決めたルールには口を出せず、悔しかったですね。毎週、教会に通って、隣人を愛しなさいと言っていた両親が離婚したのはショックだったし、神様なんていないじゃんとも感じました。

 二つ下に妹、そのさらに三つ下に弟がいて、最初は3人とも父に引き取られました。その後、私と妹は半ば“脱走”して母の所に戻りましたが、4歳だった弟を連れ出すことができず、生き別れになりました。

 父とも弟ともそれから10年くらい会うことができませんでしたが、今は仲良くしています。