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1994年12月に初代プレイステーション(PS1)が発売された時、「いくぜ、100万台。」のCMコピーに心奮わされたものの、私たちはデジタルの世界が今日迎えている大変革を、想像することさえできなかった。
しかし、一介のサラリーマンエンジニアであった久夛良木健氏は、15年先の未来を見通していた。そこからバックキャスティングする形で10年先、5年先と段階的に目標に落とし込み、世界からベストプラクティスを集めて、製品開発と事業化を実現。8年で売上1兆円という巨大インダストリーをつくり出し、当時、スタートアップの最速成長まで記録した。デジタル時代の波頭に立って大変革のうねりを牽引してきた、といえる。
PS2が発売された2000年3月には、「次のPSをネットに溶かしたい」と発言したが、当時、その真意を理解できた人はほとんどいなかった。それから十数年後の現在、ようやく私たちの認識はその言葉に届こうとしている。だが、この時代の現実はもっと先を進んでいるに違いない。
そこで、たえず未来を洞察してきた久夛良木氏に、①今日、私たちが直面しているデジタル化による大変革をどう読み解くべきなのか、②(かつてあれほど世界を席巻した日本企業の存在感が急速に薄れている中で)日本企業の新たなイノベーションはいかにすれば可能となるか、③デジタル時代の経営はどうあるべきか、についてご本人の体験を踏まえて大いに語ってもらった。
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「プレイステーション」という
イノベーションが生まれるまで編集部(以下青文字):「プレイステーションVR」が評判ですね。PS1の発売が1994年12月ですから、今年で22歳の青年です。「プレイステーションの父」としては、我が子の成長をどう見ていますか。
久夛良木(以下略):プレイステーションの構想を具体的に描き始めたのは1990年頃のことで、実際に事業会社(ソニー・コンピュータエンタテインメント)を設立したのは、3年後の93年。その翌年にPS1の発売に漕ぎ着けました。その後は、だいたい5年単位で3サイクル、15年くらいのレンジを視野に入れて、構想を実現に移しました。
半導体の微細化技術の進展の影響もあって、結果的には、PS1、2、3と、6年サイクルで市場に投入することになりましたが、その後のPS4やプレイステーションVRなど、次の世代が頑張って、プレイステーションを元気に成長させている姿を見ることができるのは、生みの親としては嬉しいものです。
思い描いていた未来が、いままさに現実のものになろうとしている状況には、あらためて驚きを禁じえません。ゲーム機も含めて、それまで単独に存在していたさまざまな機器群がネットワークにつながり、さまざまなアプリケーションや既存のプラットフォームまでもが、いま急速にネットワーク側に溶け込もうとしています。
構想を立て始めた当初は、いかにプレイステーションという新しいプラットフォームを、その道筋で市場にコントリビュート(寄与)させていくかが夢であり、壮大な挑戦でした。
当時は、まだインターネットそのものが家庭にまで到達していませんでした。1995年のウィンドウズ95でインターネット接続が可能なPCが登場し、2000年に世界で初めてインターネットに接続可能な携帯電話サービスiモードが誕生するまでは、世界中の人々がネットに常時接続するようになるとは、とても想像できない時代でした。ハードも、またソフトも、単独の機器、単独のアプリケーションといった形で提供されていましたし、それぞれが20世紀型の工業製品の量産発想にどっぷり浸かっていたのです。
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そんな時代の中で、漫然と時代の変化を待つのではなく、みずからが旗を振って、「コンピュータとエンタテインメントの融合」という新たなドメイン(領域)を提案することで、未来を一挙に引き寄せることができるのでは、というアイデアが一気に押し寄せてきたのです。世界中の家庭のリビングルームをつなぐ、リアルタイムのコンピュータエンタテインメント・プラットフォーム。そのムーブメントを自分たちの手で一気に加速したいと、日々ワクワクしていました。初代プレイステーションが出てから20余年。PS4が元気で育っているのは、嬉しい限りですが、半面、こんなことを言うと現場の担当者たちは意外に思うかもしれませんが、「まだ親の家業をやっていていいのかなぁ」とも、贅沢ながら考えてしまうんですよ。
まだ親を超えていない、という意味ですか。
いや、そうじゃなくて、もっともっと大胆に弾けてもいいんじゃないか、そう思う瞬間が多々あります。
“プレイステーションの父”が語るイノベーションの核心
デジタル時代の「愉快な未来」のつくり方【1】
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