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「時代の才能たち」を
巻き込んだコンセプト

 深く静かに潜行した水面下から、コンセプトができて水面に浮上するフェーズに移った時、具体的にどのように動いたのですか。

 プロジェクトのコンセプトは、「コンピュータとエンタテインメント融合領域の創造」でしたから、音楽を手掛けるソニー・ミュージックエンタテインメント(SME)グループの拠点の一つ、青山にあるEPICソニーのメンバーとは頻繁に情報交換を行っていました。

 そこで当時、EPICソニーを統括していて、のちに我々ソニー・コンピュータエンタテインメントの強力な創業メンバーの一人となる丸山茂雄さんと出会い、彼がミュージックグループから精鋭たちを選抜してくれたのです。ゲームソフト会社との交渉、クリエイターやアーティストとのコミュニケーション、営業戦略や流通戦略は、みんな彼らがゼロからつくり上げてくれました。

 ソニー本社がある品川からも、メンバー10人ほどを引き連れて、青山に集結しました。この時、応援してくれたのは、当時社長だった大賀さんと、総合企画グループ本部長で専務の伊庭保さんくらいで、ほかの役員は全員反対か、どうせすぐ潰れるだろう、くらいにしか思っていなかったでしょう。幸い、青山に引っ越してからは急速に余計なノイズも届かなくなり、開発に集中できたのです。

 ソニー本社との窓口は、伊庭さんの懐刀である徳中暉久さん(のちにソニーCFO)が、創業メンバーの一人として一手に引き受けてくれて、契約や経営課題の洗い出し、その手当てに奔走してくれました。エンジニアのリクルートは主に私が担当しましたが、伊庭さんやソニー本社のR&D戦略本部が親身になって動いてくれたおかげで、初動に弾みがつきました。

 そして、初代プレイステーションの基本コンセプトが固まると、具体的な開発項目をベースに、これぞと思うエンジニアに当たりをつけた一本釣りの要領で、一人ひとりを巻き込んでいきました。そもそも力のあるエンジニアは、自分が本当にやりたいことが見つかれば、全精力を傾けて、ターゲットに向かって猛烈に挑戦するものです。

 ちょっとやれば手が届きそうな日和った目標設定は、むしろ彼らには逆効果です。一見、夢物語に思えるものでも、筋が通っていて頑張れば最後に何とか手が届きそうなギリギリの高さに目標を設定するのが、超優秀な人材を燃え上がらせるコツではないでしょうか。

ソニー圏だけでなく、「時代の才能たち」を世界から動員されていますよね。

  1.  それも戦略面でのキーポイントでした。共通する理念は、その時点における「世界のベストプラクティスの追求」ですから。自分たちの殻に閉じこもりがちなマインド=NIH症候群に陥らないためにも、世界の最先端技術をいち早く取り入れながら、そこに新たなイノベーションや味付けを加えていくオープンな開発スタイルを目指しました。

     必然的に、開発メンバーはほかの企業や大学・研究機関のエンジニアへと広がっていきました。

     心臓部であるCPU(中央処理装置)の開発では、座標変換エンジンなどの主要機能はソニー出身のメンバーが設計したのですが、100万ゲート規模の半導体が必要になりました。当時は、日本の第一線の半導体企業でも2万〜3万ゲートの半導体しか量産していない時代で、何とか0・5ミクロンの多層配線で1チップに集積できる最先端技術に挑戦できそうなアメリカ・シリコンバレーにあるLSIロジックというロジック半導体受託生産会社に製造を委託しました。

     そして、もう一つの心臓部である3DCG描画エンジンは、東芝の半導体研究所の研究員が温めていたアイデアをベースにソニーと共同で完成させましたし、電源は松下寿電子工業、最先端のDRAM(半導体記憶素子)はサムスン電子、メモリーカード用不揮発性メモリーの分野ではアメリカのアトメルという小さな半導体会社と共同開発するなど、当時の世界の最先端技術をオープンに取り入れました。

     ゲームソフトの開発にしても、SNシステムズというイギリスの小さなソフトツールメーカーを見つけたり、第一線のゲームソフトメーカーのプログラマーも巻き込んだりして、共通のライブラリー整備やサンプルコードの共有など、従来では考えられなかったような会社を超えた開発ネットワークが急速に築かれていったのです。

     想いは一つ、それは「いままでにない画期的なコンピュータ・エンタテインメントを、全員の手で実現しよう」という熱い想いでした。このオープンな世界規模の共同ワークフローがあってこそ、プレイステーションという巨大なムーブメントが誕生できたのだと、あらためて実感しています。