山下太郎アラビア石油社長

 前回に続き、「アラビア太郎」と呼ばれた山下太郎・アラビア石油社長による回顧録をお届けする。「ダイヤモンド」1964年5月11日号に掲載された記事だ。

 札幌農学校(現北海道大学)に学んだ山下は、同校の初代教頭ウィリアム・スミス・クラーク博士の「少年よ、大志を抱け!」という言葉に従い、開拓者精神(パイオニア・スピリット)を存分に発揮した人生を歩んだ。第2次世界大戦前、オブラートのメーカーから始まり、貿易業や中国・満州の開拓などで財を成すも、敗戦により無一文になってしまう。

 しかし戦後は一転、資源小国である日本の“宿願”ともいえる石油開発に打って出る。ペルシャ湾の海底油田の採掘利権をサウジアラビア、クウェート両政府から獲得し、中東での石油採掘権を持つ日本初の石油会社、アラビア石油を設立する。これらの経緯は、記事をお読みいただきたい。

 満州開拓時代は「満州太郎」、石油開発に成功してからは「アラビア太郎」と呼ばれた山下だが、「大山師」との異名も持った。山師とは本来、山を歩き回って鉱脈を見つけ、一獲千金をたくらむ投機家のことで、山下の場合は山でなく海底ではあったが、確かにその生き方は山師そのものである。

 そして山下自身、本文中でも「山師、大いに結構」と語っている。それどころか、「この世に一番大事なものは山師の根性ではあるまいか。(中略)山師の真骨頂は、身体を張り、度胸一番、運命と勝負する姿だ。エジソン、ナポレオン、信長、秀吉、家康――彼らは皆、大山師ではないか」というのである。

 また、山下は本文中で「思惑」という言葉をよく使っている。「雑穀に見切りをつけると、次に、ブリキの“思惑”をした。これが思惑の初めだった」などだ。思惑とは思惑売買、すなわち投機のことだが、山下のすごみは文字通りその“着想”が常人離れしたスケールであることだろう。

 山下は言う。「いろいろな事業を営んで、そのほとんどに成功を収めた理由は、パイオニア・スピリットにあるといって過言ではない。パイオニア・スピリットとは、独創性ということだ。私が、上に語ってきた多くの思惑も、これを別な見方をして、オリジナリティの勝負だと見てくれる人があったら、私はその人と堅く握手する」。この記事から3年後、67年に山下は志半ばで没するが、師と仰ぐクラーク博士と天国で固い握手を交わしたことだろう。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

満鉄従業員社宅の建設・運営を
一手に引き受けるに至った事情

1964年5月11日号より

 米の話を続けると、その後、私は、満鉄(南満州鉄道)の消費組合との間に、相当、大量の契約をした。そして、契約5万石のうち、一部を納入したとき、大正9年3月15日の恐慌に当面した。

 満鉄は、米価暴落を理由に、私との契約を一方的に破棄してしまった。このとき、満鉄の消費者組合長は、商法の泰斗である松本烝治先生。私は、満鉄に対して一言のクレームも付けず、潔く契約破棄に伴う損失に甘んじた。

 このときは有名な富豪が軒を並べてつぶれた。茂木商店や、鈴木商店の破産は、いまに伝えられている。

 私は、やはり、鉄の思惑をやっていた上、上海で米を買い、為替を買っていた。米も為替も半値以下になってしまったので百数十円のマイナスができた。こうして、私は、スッカラカンに近いものになった。

 ところが松本烝治先生は、法律上からも徳義上からも、損失は満鉄がカバーすべきものだと言われた。私は、尊敬してやまない松本先生にご損をかけてはたまらないと思い、どうせ自分は損のついでと諦めて「先生、私は要りません」と言った。

 一方、多くの満鉄出入りの商人は、ささいなことで訴えたり、補償要求を出したりで、これを食いものにしようとするものが多かった。

 私は、反対に「要りません」と言ったものだから、後で聞くと、松本先生はじめ満鉄の幹部に、大きな感激を与えたそうである。

 それが後になって、満鉄従業員社宅の建設とその運営を一手に私に委ねると言われた根因となった。

 ガラ(大恐慌)の後は、整理その他のためてんやわんやの状態に追い込まれた。おまけに大阪滞留中、チフスにかかった。商売をはじめとし、そのときは、何もかも思わしくなかった。

 大正10年に、たまたま松岡洋右氏が、満鉄の理事となった。松本先生は、上席理事で、後で副総裁になられた。私をよく知ってくださっている方が、満鉄の幹部になった。だが、それらは、まったく偶然で、私はなにも満州などで富を成すつもりはなかった。

 しかし、たまたまもうかり、富を成したことについては、原因がある。当時、世の中は、大変な不景気で、坪100円で家が建つ。

 金の方は、満鉄で保証してくれる。銀行にとっても、私の持っている手形は、良い投資物であった。おまけに仕事は一手独占というわけで、誠に都合よく事が進んだ。

 それにつけても、松本先生への恩義と愛情と尊敬の念は、私の心から、消しても消しても消えない。先生との交わりは、米の問題から始まり、戦後他界されるまで続き、先生については私の生涯で最も印象の強い数々の記憶がある。それについては、後日、述べる機会を得たいと思うが、松本先生は、よく他の人に、「山下こそは信義の人である。士魂を持った事業家である」と評されたそうである。また、私の方は、先生に最も愛された弟子として、誠実一筋に先生に師事した。先生との交わりこそ、生涯で最も爽快な思い出となっている。