日本は国の捉え方でも、ガラパゴス化している

「挑戦しない脳」の典型例は、偏差値入試。<br />優秀さとは何か、を日本人は勘違いしている<br />【茂木健一郎×ジョン・キム】(前編)

茂木 僕は、日本のマンガ文化が生まれた聖地である、トキワ荘の跡地の前を偶然、通りかかったことがあるんですね。そこに、手塚治虫や赤塚不二夫や石ノ森章太郎ら日本の漫画家の神様みたいな人たちがいたんですが、どうしてそこから素晴らしいものができたのかというと、社会の権威からほど遠いところにいたからだったんだと僕は感じたんです。

 当時の彼らは社会の陽の当たるところにいなかった。でも、だから文脈を超えて新しいことに挑戦する気持ちが出てきたんだと思うんです。それこそ、みんなが大学に行こうとする今は、最初から日本の大学はいいものだと思っている。でも、本当は大したことはないんですよ。実際、偏差値の高い大学を出た人間ほど、批判に弱いでしょう。日本の優等生には、強さがない。それだけを見てもダメでしょう。

 こんな話があるんです。あるとき、スティーブ・ジョブズをひどく描いた映画があった。誰もがジョブズは怒っていると思っていた。ところが、ジョブズは見た後もニコニコ笑っている。彼は言うわけです。「Any publicity is good publicity.」話題になればいいんだ、オレのことに興味があるから映画にしているんだ、と思い込んでいる。これくらいの強さがなければ、やっぱりアップルみたいな会社はできないんですよ。

キム その意味では、スティーブ・ジョブズというのは、象徴的です。有名な「Stay foolish.」というのは、誤解してはいけないと思っているんです。あれは、自分にとってはfoolishではない。自分にとっては正しい道であるにもかかわらず、世の中がそれを愚かだと言っても、自分自身の信念を優先するくらい、自分の思考に対する絶対的な信頼を持て、ということだと僕は思うんです。

 おそらくジョブズやビル・ゲイツを育てた周囲の人たちは、文脈を超えたり、一般のレーンから外れることを、むしろ奨励するような環境を彼らに与えていたのではないかと思います。それは、とても大事だと思います。

 さきほど茂木さんはおっしゃいましたけど、子どもは何より挑戦的で、創造的な存在ですから。意識しなくても、創造を続けていくことができる。

 ところが、社会性を身につけていく中で、創造的なポテンシャルがだんだん削がれていくのが、近代社会というものだと思うんです。そういう子どもが本来持っている創造性を削ぐことなく、育てていけるような教育や、家の中での子育てが、これからの創造時代には求められるのだと思います

茂木 さっき、ノーベル賞の話をしましたけど、ノーベル賞のユダヤ人受賞率って、ものすごく高いんですよ。じゃあ、どうしてユダヤ人にそんなに創造性があるのかというと、彼らは文脈から外れるしかなかったからだと思うんです。イスラエルができるまでは、どこの国でも少数派だったし、自分たちの知恵と財産でしか、自分たちを支えられなかったから。

キム 国家という文脈を超えているんですね。

茂木 その通りです。よくよく考えると、人間は自分だったり、家族だったり、恋人や友人を大事に思いますね。同時に人類や宇宙も大事。でも、国家って、ものすごく中途半端なんですよ。国家を前提にものを考えたりするのって、便宜的な意味しか実はなかったりする。ところが、日本人はそれを勘違いして過大評価している気がするんです。

 さっき国力が落ちたと言いましたけど、パラドキシカルなことに、むしろ国というものを外して考えてしまっている人が多い国のほうが、今の国力って上がっているんですよね。アメリカはまさにそう。シリコンバレーは、その象徴的な存在です。日本は、こういうところでもガラパゴス化している。国というものに、こだわり過ぎちゃってるんですよ。

 最近びっくりしたんですけどね。ベネチア建築ビエンナーレに行ってきたんです。震災をモチーフにした日本館が金獅子賞を取って、これはもちろん素晴らしかったんですが、イギリス館が衝撃だったんです。日本人の建築家がなぜか参加していて。聞くと、イギリスは世界中から建築家を公募したというんです。イギリス館と言いながら、国籍に関係なく世界から叡智を集めるという、この考えがすごい。日本とは発想の差が歴然とあると思いました。