2019年春、財務省は紙幣の刷新を発表し、2024年から1万円札の顔は福沢諭吉から渋沢栄一に変わる。以降、渋沢が生まれた武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)にある渋沢栄一記念館や、東京都北区の旧渋沢邸跡に建つ渋沢資料館――ここには晩香廬と青淵文庫という渋沢ゆかりの建物がある――を訪れる人たちが急増した。加えて、2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公が渋沢栄一であると発表され、渋沢ブームにさらなる拍車をかけた。

 渋沢栄一といえば、「近代日本資本主義の父」と呼ばれ、企業の目的が利潤の追求にあるとしても、その根底には道徳が欠かせないとする「道徳経済合一主義」を提唱したことで知られる。この信念から派生したのが、「合本主義」(株式会社制度の導入)であり、その真意は、公益を追求するという使命はもとより、目的を達成するのに最も適した人材と資本を集め、事業を推進させることにあったといわれる。

 渋沢の口述をまとめた『青淵回顧録』に「六歳の頃から父は私に三字経の素読を教えられ、大学から中庸を読み、論語まで習った」とあるように、幼少時代からこれら四書に慣れ親しんでおり、こうした素地があったからこそ、徳川慶喜の弟・昭武に随行してパリ万博を視察し、1年半にわたってフランスに滞在したことで、渋沢は、道徳経済合一、すなわち『論語と算盤』にたどり着いたといわれてきた。

 フランス文学者にして歴史家である鹿島茂氏は、こうした定説を認めつつも、いくつか違和感を覚える。たとえば、パリ万博を視察した日本人の中には四書五経の素養のある人がいたはずにもかかわらず、なぜ渋沢だけ開眼したのか。銀行、鉄道や海運、保険業、そして製紙や紡績という順序で取り組んだのはなぜか等々――。

 こうした渋沢研究のミッシングリンクをつなぐ解を、鹿島氏は当時のフランスで支配的だった「サン=シモン主義」にあることを突き止めた。詳細は以下を参照いただくとして、さてサン=シモン主義とは何か。

 その元祖とされるアンリ・ド・サン=シモンは、1760年、高位貴族の末裔としてパリに生まれる。16歳で義勇軍の士官としてアメリカ独立戦争に参加し、合衆国の産業階級の勃興に大きな影響を受け、その後、社会主義、ついには人道主義へと傾いていく。

 その考え方を一言で言うと、社会の繁栄は生産が根源であり、それゆえ産業人を重視した社会を構築する必要がある、というものである。その際、「産業の好循環」がカギとなる。つまり、ヒト・モノ・カネが流通することで個々の産業が有機的に結び付き、相互に好影響を及ぼし合う社会が生まれる。

 サン=シモンの思想は彼が生きている間には花開かなかったが、その死後、まだ資本主義が根付いていなかったフランスにあって、だんだんと広がっていく。実際、フランス第二帝政の皇帝として1852年から70年まで在位したナポレオン3世は、サン=シモン主義の信奉者であり、産業重視政策を積極的に推し進めた。昭武らのパリ万博使節団が訪仏した1867年は、その全盛期であった。

 このサン=シモン主義こそ渋沢栄一の核心であるという発見は大きな驚きであり、ひいては日本的経営の再発見にもつながるだろう。インタビューを通じて、鹿島氏の渋沢栄一論をひも解いていく。

渋沢資本主義の原点は
仏サン=シモン主義にある

編集部(以下青文字):2013年に発行された『渋沢栄一』(文春文庫)は、上下巻合わせて1100ページを超える大作で、上梓に至るまで18年の歳月を要しています。渋沢に興味を引かれたのには、どのような経緯があったのでしょうか。

真説・渋沢栄一論【前編】フランス文学者 鹿島 茂 SHIGERU KASHIMA 1949年、神奈川県横浜市生まれ。東京大学仏文科卒業、同大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学。共立女子大学文芸学部教授を経て、明治大学国際日本学部教授(2020年に定年退職)。専門は19世紀フランス文学。著作は単著だけでも100余冊あり、『馬車が買いたい!』(白水社、1990年。2009年に新版)は1991年サントリー学芸賞受賞、『子供より古書が大事と思いたい』(青土社、1996年。2019年に増補新版)は1996年第12回講談社エッセイ賞、『職業別 パリ風俗』(白水社、1999年)は2000年読売文学賞評論・伝記賞を受賞。共著や訳書も多数。本インタビューの扉絵で紹介している『渋沢栄一(上 算盤篇・下 論語篇)』(文春文庫、2013年)をはじめ、主要な評伝や人物評の著作を紹介すると、『新聞王伝説』(筑摩書房、1991年。1997年に改題・文庫化)、『デパートを発明した夫婦』(講談社現代新書、1991年)、『この人からはじまる』(新潮社、1995年。2000年に小学館で文庫化)、『妖人白山伯』(講談社、2002年)、『破天荒に生きる』(PHP研究所、2002年)、『怪帝ナポレオン三世』(講談社学術文庫、2004年)、『ドーダの近代史』(朝日新聞社、2007年)、『パリの異邦人』(中央公論新社、2008年)、『パリの日本人』(新潮社、2009年。2015年に中央公論新社で文庫化)、『吉本隆明1968』(平凡社新書、2009年。2017年に新版)、『蕩尽王、パリをゆく』(新潮選書、2011年)、『ドーダの人、森鴎外』(朝日新聞出版、2016年)、『ドーダの人、小林秀雄』(朝日新聞出版、2016年)、『太陽王ルイ14世』(KADOKAWA、2017年)、『明治の革新者』(ベスト新書、2018年)、『小林一三』(中央公論新社、2018年)などがある。

鹿島(以下略):そもそもは、1992年頃、文化人類学者の山口昌男先生が主宰する電通総研の「企業文化研究会」で、東京外国語大学教授の長幸男先生が渋沢栄一について発表された時に遡ります。

 先生いわく「渋沢は、将軍徳川慶喜の弟・昭武に随行し、1867年に開催されたパリ万国博覧会をはじめ、フランスを視察し、フランスにおける資本主義の発展に感銘を受けて帰国した。渋沢は、在仏中、名誉総領事として案内役を務めた銀行家フリュリ=エラールから金融システムについて教えられた」。

 ちょうどその当時、私は『絶景、パリ万国博覧会』(小学館文庫)を上梓したばかりで、フランス第二帝政の社会と経済について調べていたこともあり、渋沢がフリュリ=エラールを介して学び取ったのは、もしかすると、この時期のフランスで支配的な社会思想であった「サン=シモン主義」なのではないかと考えるに至ったのです。

 サン=シモン主義とは、その名の通り、18世紀から19世紀を生きたアンリ・ド・サン=シモンの考え方で、資本主義が生まれてくる土壌のないところに資本主義を移植し、ヒト・モノ・カネ・アイデアを循環させることで、個人や社会を豊かにし、生活の質や社会福祉の向上を目指した、現代的に言えば、修正資本主義的な思想です。実際、資本主義が存在しなかったフランスに資本主義が芽生え、さまざまな産業が萌芽したのは、サン=シモン主義のおかげといえるでしょう。

 ナポレオン3世は、サン=シモン主義の信奉者にして実践者でした。ですから1852年から70年までの第二帝政期には、産業重視の政策が推し進められました。その最盛期である1867年に開催されたパリ万博は、まさしくサン=シモン主義を象徴するイベントでした。ちなみに、渋沢ら使節団の面々の度肝を抜いたスエズ運河は、開削を指揮したフェルディナン・ド・レセップスのアイデアではなく、着工された1859年より30年ほど前に、サン=シモン主義者たちによって打ち出されたものです。

 それまでの渋沢研究や評伝を読むと、彼が日本に近代資本主義を根付かせたのは論語の素養があったからだ、という説明が少なくありません。渋沢が唱えた道徳経済合一という考え方には、たしかに儒教的職業倫理が反映されていますが、パリ万博を視察した日本人の中にも論語を学んだ者がいたにもかかわらず、なぜ渋沢だけが資本主義を理解し、その必要性に目覚めたのか、論理立って説明できません。

 加えて、渋沢がパリから帰国し、なぜ最初に株式会社と銀行を設立し、次に陸運と海運に着手し、合わせて損害保険会社を興すと同時に、紡績や製紙などに取り組んだのか。この順序はけっしてでたらめではないでしょうから、何らかの理由があるはずですが、この点についても論理的な説明を聞いたことはありませんでした。

 滞在中の案内役を務めた銀行家のポール・フリュリ=エラールから、さまざまなことを学び、吸収したことは知られていますが、先ほど申し上げた通り、渋沢たちが訪れた当時のフランスはサン=シモン主義が支配的でしたから、渋沢はこの思想に感化されたのではないかと仮説を立てました。事実、渋沢はフリュリ=エラールから、サン=シモン主義的な資本主義や産業振興について学んでいます。

 渋沢がサン=シモン主義の影響を受け、これを日本に移植しようと、当時のフランス政府の産業振興と同じ道筋を踏襲したと考えると、つじつまが合う。そこで、この仮説を検証しようと、いろいろ調べ始めたというわけです。