2年間の研修を終えたら
青森に戻って開業するつもりだった

 和嶋歯科医師は青森県出身。幼い頃、祖父母から将来何になりたいかと問われ「お父さんが教師だから将来は僕もセンセイになりたい。センセイと呼ばれるのは教師かお医者さんだけど、お父さんは“血を見るのが嫌”だから教師になったと聞いた。僕も血を見るのは嫌だけど、歯医者なら血を見ないし、往診とかもなさそうだ」との理由で歯科医師を目指したという。

 歯科医師とて出血と無縁ではいられないはずだが、「幼稚園児ぐらいだったので、歯医者が何をするかもよくわかってなかったんでしょうね」と笑う。

 その後は神奈川歯科大学を卒業し、慶應義塾大学病院歯科・口腔外科の研修医になった。

「元々、歯医者は卒業したら地元に帰って開業するものというイメージがあったので、研修先はいろんなことをトータルに勉強できるところがいいと、慶應大学病院にしました。開業したら、口の中のことはなんでも診ないといけませんからね。歯科大の医局に残ると補綴とか口腔外科とか専門のことしか学べなくなってしまう。

 その点、慶應の歯科口腔外科は、歯科に加え、口腔外科的なことも幅広く学べるので、しっかり2年間の研修を終えれば、一人前になって開業できると思いました」

 だが予定が狂う。

「入局前の3月に前の教授が退任し、それまでいたスタッフがほとんど辞めてしまっていたのです。新しい教授が決まったのは夏ぐらいでした。その上、人手が足りない中、頑張って診療を続けていたら、2年目にはさらに人がいなくなり、2年で辞める計画は実行できそうになくなりました。

 しかも研修期間を終えた3年目からは、通常はありえないことですが給料をもらえる正規教員になってしまいました。ますます辞められずにいたら、あろうことか『顎関節症外来』のスタッフがなぜかみんな辞めてしまい、教授に命じられて顎関節症を専門的に診ることになってしまったのです」

 当時、顎関節症の系統だった治療は確立されておらず、教えてくれる先輩もいなかったので、情報を集め、独学で勉強しながら頑張っていた。そこに転機が訪れる。

「あるとき、慶應のOBから『アメリカの顎関節症専門家を招いて話を聞くことになりました。でも自分たちは深い知識がなく不安なので、会場で解説してほしい』と頼まれました。顎関節症の専門外来を担当しているとはいえ、まだまだ若輩者なのに。それだけ当時の日本では、顎関節症を知っている人がいなかったのです」

 専門家はカリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)のチャールズ・マクニール教授だった。

「顔見知りになれて、後日、アメリカの学会に行く際に連絡を入れると、外来を見学させてもらい、カンファレンスにも参加させてもらえて、大変勉強になりました。

 以来、交流を重ねて研修し、顎関節症のスペシャリストになれました。その間、アメリカの顎関節症学会は口腔顔面痛学会へと名称が変わり、内容も口腔顔面痛全般に拡大して行きました。1995年頃のことです」

 その後、和嶋歯科医師は1999年、アメリカ口腔顔面痛専門医試験に合格。2000年には口腔顔面痛に関する臨床医学と基礎研究の発展を目的に、現在の一般社団法人日本口腔顔面痛学会の前身となる口腔顔面痛懇談会を創立し、現在に至る。