かなりの「女性差別の国」を
実感している男性は少ない

 というわけで、2月に森喜朗・東京オリンピック・パラリンピック組織委員会元会長が辞任に追い込まれた女性蔑視発言、「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」「組織委にも女性はいるが、わきまえている」を持ち出すまでもなく、じつは国際的には、日本はれっきとした「男尊女卑の国」なのだ。

 これはきわめて深刻に受け取るべき厳然たる事実なのだが、日本がかなりひどい女性差別の国だと自覚できる人は多くない。おそらく、とくに男性にはこのことをリアルに感じている人は、少ないのではないか。

欧米にはない「世間」に
埋め込まれた「身分制のルール」

 日本が国際感覚とはとんでもないズレがあるのは、いったいなぜなのか?

 答えは簡単で、それは海外にはない日本特有の人間関係である「世間」に、日本人ががんじがらめに縛られていることにある。

「世間」があるために差別が構造化されており、女性差別が隠蔽され、きわめて見えにくい構造になっているからだ。

 見えにくい理由の一つは、「世間」に「身分制」があるためだ。日本は先進国のなかでは、きわめて伝統的なものを多く残している唯一の国だ。その代表が「世間」という人間関係だ。

「世間」は『万葉集』以来1000年以上の歴史があり、日本人は伝統的な「世間のルール」を律儀に守ってきた。なぜなら、「世間を離れては生きてゆけない」と信じており、ルールを守らないと「世間」から排除されると考えるからだ。

 そのルールのなかに「身分制のルール」がある。年上・年下、目上・目下、先輩・後輩、格上・格下、男性・女性などの上下の序列である。

 日本人はこの「身分制」に縛られており、そこに上下の序列があるために、これが差別の温床となっている。

 現在の欧米社会には、日本のような「世間」はない。この違いは言葉の問題を考えると分かりやすい。

 英語では一人称の「I」と二人称の「YOU」は1種類しかない。つまり対話の相手が、友だちだろうが大統領だろうが、タメ口でよい。ところが日本語では、「I」も「YOU」も、「オレ、私、僕、あなた、お前、君…」など山のようにある。

 日本語でこれほど一人称・二人称の使い分けが必要なのは、あらゆる場面でその都度、対話の相手との上下関係、つまり「身分」を考えて、言葉を選ばなければならないからだ。