当初はデパートの集客対策だったテーマパーク事業

 この巨大開発プロジェクトの立案を担当したのが、ロッテショッピング副社長兼営業統括担当の秋山英一だった。秋山はロッテグループの流通部門を率いる“大番頭”であり、ロッテの“お雇い外国人”の一人として知られた存在だった。

 これまでロッテは、チョコレート、ビスケット、キャンディへの新規参入に際しては、欧州生まれ、米国育ち(大量生産システムで急成長)という商品の原点に必ず立ち返り、現地で一流の技術者を探して「お雇い外国人」として招聘する戦略をとってきた。未経験の領域に進出して大成功を収めるための、いわばロッテの「勝利の方程式」である。そしてこれは同時に、“タイムマシーン経営”と呼ばれた、日韓の経済発展のギャップを背景に、日本で先行した成功事例をいち早く韓国に導入して成功させるビジネスモデルでもあった(『ロッテを創った男 重光武雄論』より)。

 韓国のロッテグループがロッテデパートで流通業に本格参入するに当たって、タイムマシーン経営実現のために重光が三顧の礼をもって招聘した“お雇い外国人”が秋山だった。

 秋山は1925(大正14)年佐賀生まれの福岡育ち。名門修猷館中学から旧制五高を経て早稲田大学に進み、三越で活躍した後、九州の博多と小倉に店舗を持つ玉屋の経営者に請われて入社、常務取締役営業本部長として販売の最前線に立っていた。秋山を招聘するに当たり、重光は筋を通すためにわざわざ九州の玉屋を訪ねて話をするほどの惚れ込みぶりだった。

 秋山がロッテデパートの経営で特に重視したのが接客だった。日本のデパートのような従業員が深々とお辞儀をするという、韓国ではそれまでなかった接客が、「ロッテ文化」と名付けられるほど強烈な印象を与えることになり、その徹底で「お辞儀の文化」が韓国に定着したほどだ。

 デパートの内装も自前で取り組み、これまでになかったような格式と楽しさを演出した。半分以上がテナント貸しという当時の業界のやり方を改め、9割以上を直営販売とし、正札での販売を徹底した。古巣の三越は提携した地方百貨店の経営改善に取り組み中だったため、幹部社員の研修などは高島屋の手を借りた(*2) 。こうした諸事をデパート開業前のわずか2年半でやり遂げたのだから凄まじい。

 さらには、ルイヴィトンをはじめとする欧米のハイブランドを口説き落としてロッテホテルの免税店に誘致したり、外食テナントの集まらないロッテデパートの食堂街を立ち上げたりと、八面六臂の活躍を見せた。こうした、流通や観光で築いたノウハウが韓国のロッテグループの事業の礎となった。

 そんな秋山が複合開発計画で提示したのは「売り場面積1万平方メートルのデパート」だった。これを重光は「3万平方メートル以上なければだめだ」と一喝して、却下した。

 当時はまだ、ソウル市南部の江南全域で商業施設が少なく、ショッピングのために江北(カンプク)まで行く場合が多かった。しかも、3万平方メートルもの巨大売り場を維持するには平均で1日15万人の集客が必要となる。重光は秋山に「集める仕掛けをつくればいいじゃないか」と答え、テーマパークのようなものをつくれと命じたのだという。重光は当時描いた開発戦略をこう振り返る。

「スーパーもいくつか開業したのだけれど、人が集まらない。結局、みんな北(江北)へ行っちゃう。そこで、僕は考えた。人を集めるためには、何が必要かと。その答えが『ロッテワールド』です。テーマパークを中核にして、ホテルもデパートもショッピングモールもある施設があれば、みんな来るんじゃないか。子どもと遊びに行ったり、奥さんとショッピングもできる。駐車場もたっぷり用意して、何でも一ヵ所に集中していれば便利じゃないですか」(*3)

 1カ月間ほど米国のディズニーランドやカナダの大型屋内施設を視察した重光が関心を持ったのは、81(昭和56)年にできたばかりの北米最大のショッピング施設「ウェスト・エドモントン・モール」(カナダ・アルバータ州)だった。

「冬の寒いときに見に行きました。そうしたら、エドモントンは人口四〇万人くらいの都市なんだけれど、日曜日にはホテルやショッピングモールなどに一〇万人来ている。映画館もテーマパークもあるし、すごい人出なんです。それ見ろ、と思った(笑)」(*3)

 重光はすっかり自信をつけたが、問題は、この時点で88(昭和63)年のソウル五輪開催まであと4年ほどしか時間がないことだった。しかし、ロッテグループはテーマパークとデパートを中心とする巨大複合施設である「ロッテワールド」開設へと経営の舵を切った。1万坪のデパートのために、敷地面積約4万坪、延べ床面積18万坪(東京ドーム約13個分)という、当時で世界最大の室内型テーマパークを建ててしまう決断は、オーナー経営者の重光でなければできなかっただろうし、それを支えた秋山がいなければ、「観光流通」企業としてのロッテグループも今、存在しなかっただろう。

*2  藤井通彦『秋山英一聞書 韓国流通を変えた男』西日本新聞社、2006年
*3 『週刊ダイヤモンド』2004年9月11日号