サウジでゼネコン再建中の大卒1期生を呼び戻す

 わずか4年で世界最大の室内型テーマパークを建設するという無謀なプロジェクト実現のために重光が白羽の矢を立てたのが、1964(昭和39)年入社の日本のロッテの大卒1期生である林勝男(イム・スンナム)だった。林は、渋る重光を何度も説得して、韓国政府が放出する石油化学メーカー「湖南(ホナム)石油化学」(現・ロッテケミカル)の株式の取得に動き、ロッテグループの化学事業の中核を築いた人物としても知られている。

 林は当時、78(昭和53)年に重光の弟(五男)の俊浩(ジュンホ)主導で買収したゼネコン、平和(ピョンワ)建設(現・ロッテ建設)の立て直しのため、サウジアラビアで孤軍奮闘の日々を送っていた。平和建設は韓国内で受注が苦しかったこともあり、サウジアラビア中心に海外で事業を展開していた。ところが、その経営実態は惨憺たる状況だった。

 買収早々立て直しのため自ら乗り込んだ俊浩は、社員を集めて3時間ほど話をした。仮に平和建設の再建に失敗し、倒産することにでもなれば、ロッテ系列の企業もすべて潰れてしまう。

「『会社が潰れたら私は死ぬしかない』と語りながら、長いナイフを取り出して、『この建設会社の再建がうまくいかなければ私は切腹する』と宣言しました」(重光俊浩)

 社員を奮起させるための言葉ではなかった。本気でそう思い詰めていたのだった。林がゼネコン再建の最高指揮官として送り込まれて5年、重光から振り込まれた資金で最終的な事業整理に取り組んでいる最中に林は呼び戻されたのだ。余談になるが、重光は林を呼び戻す際にこう述べたという。

「韓国ではこうした建物を任せる場合はだいたい3%ぐらいは総責任者のポケットに入ることになっている。しかしそれをすると会社は10%ぐらいの損失になる。だから誠実なお前に任せるんだよ」

 重光が林を呼び戻した本音は、林がゼネコン経営で身につけた建設業界のノウハウとともに、“誠実さ”を評価したということにあったのかもしれない。

 ホテルとデパートの建設の際に設けられた建築部門のトップに林は就任した。その時に重光から「これでやりなさい」と渡されたのは、設計図代わりの、プロジェクトの構想を描いたような1枚の絵だった。驚いたことに、建築許可の申請に不可欠な設計図が存在しないのだ。林はこう振り返る。

「当時の全斗煥(チョン・ドファン)大統領が、よくこれに許可のサインをしたものだと思いました。工事は鉛筆で設計図を描きながらやっていったのです」

 重光の開発プロジェクトはもはや常識が通用しない世界に足を踏み入れていた。構造計算をして図面を描いていたのは黒川紀章と日本からやってきた100人の設計士たち。韓国の設計会社と一緒になって工事をしながら、図面を描くという離れ業である。

 しかも難工事の連続である。室内に大規模娯楽施設を建設した経験は誰にもなかった。元が川を埋めたような土地なので地盤の弱さも問題になった。さらに、ロッテホテル建設で見せた重光のこだわりはここでも発揮された。例えば、室内全天候型の徹底を求める重光のために、屋根には外光が入るようにガラスが使われたが、ガラスは重く、支える鋼材の柱は1本70トンにもなった。そのために現代(ヒュンダイ)重工から造船用クレーンが持ち込まれ、現代の会長が3カ月に一度は視察に訪れたという前代未聞の工事となったほどだ。

 さらに驚いたことに、ロッテワールドの突貫工事と並行して、ロッテホテルの新館建設も進んでいた。アジア大会が開催される86(昭和61)年を「グループの歴史の転換点になる時期」とした重光は、ホテル新館をソウル五輪までに完成させることでロッテを第二の飛躍期に導こうと考えたからだ。82(昭和57)年にロッテホテル内に「新館建設本部」が発足、重光は新館建設のために日本で資金を集め、約9400万ドルを確保、ロッテホテルの客室数が倍になる新館プロジェクトをスタートしていたのである(上棟式は86<昭和61>年10月、開業は88<昭和63>年6月)。81(昭和56)年のソウルオリンピック開催決定による開発ブームと、韓国の驚異的な経済成長とも相まって、当時はまさに“何でもあり”の時代であり、結果的にロッテグループはその波に絶妙のタイミングで乗ったというわけである。