韓国の政界再編にまで関与する“黒幕的”な実力者に

 ソウルオリンピックが開催される1988(昭和63)年。ロッテワールドの建設現場はまさに修羅場の様相を呈していた。9月17日の開催日までに少なくともホテル棟だけは絶対に完成させなければならなかった。ところが、着工から程なく、行政の許可遅延で7カ月間も工事が中断する。86(昭和61)年6月にようやく工事が再開されるものの、残された期間は27カ月しかない。

 林は、休暇どころか休息も抜きで突貫工事を進める「100日作戦」を2回、「50日作戦」を1回発動した。重光はすべての要員をホテルの現場に張り付け、他の工事は一切中止させた。だが、五輪開催1カ月前の段階でも、ホテル正門前には建設資材が山積みされていた。造園工事、歩道のブロック工事も進行中で、ホテル周辺は混迷を極めていた。当初の開館予定日は8月24日だったから、タイムオーバーは必至の状況だった。

 だが、毎日ワンフロアずつ工事を完了させるという殺人的なスケジュールにより、8月28日に部分開館、9月6日に全館開館という奇跡を起こしたのだ。さらに11月12日には蚕室ロッテ百貨店、19日には大型スーパーのロッテショッピングモール(現・ロッテマート)が開業した。

 また、テーマパーク部分も、89(平成元)年7月12日にロッテワールド・アドベンチャーが、90(平成2)年3月24日にロッテワールド・マジックアイランドが開業し、蚕室のロッテワールドの建設はすべて完工した。

 この時、重光は数え年で69歳。日本に渡って49年で「衣錦還郷(いきんかんきょう)」(故郷に物質的還元を行うという朝鮮儒教の思想)に基づき、建設費用だけでも6500億ウォン(当時のレートで約1200億円)を投じた巨大プロジェクトが遂に結実したのである。

 90(平成2)年3月24日、ロッテワールド・マジックアイランドの開館式では、テープカットは重光夫妻を中心に、元総理大臣の中曽根康弘夫妻、平民党総裁の金大中(キム・デジュン)、民主自由党最高顧問の金鍾泌(キム・ジョンピル)などが参加した(このとき「三金」の一人、民主自由党最高委員の金泳三<キム・ヨンサム>は訪ソ中でこの場にはいなかった)。日韓の大物政治家がテープカットに駆けつけるほど、重光武雄そして辛格浩(シン・キョクホ)は強大な力を持っていたのである。

 ここで当時の韓国の政情を解説しておこう。88(昭和63)年2月に大統領となった盧泰愚(ノ・テウ)が率いていた民主正義党は、前大統領の全斗煥によって活動を制約された「三金」のうち、平民党(金大中)を除いた、統一民主党(金泳三)と新民主共和党(金鍾泌)の2党と90年(平成2)に統合して、巨大政党「民主自由党」を結成した。開館式はこの直後のため、参列者の間に微妙な空気が漂っていた。

 この3党統合に重光が深く関与していた。当時、政務長官だった朴哲彦(パク・チョルオン)がこう証言している。

「重光会長は3党の統合にかなり貢献したのは事実です。金泳三総裁と親しかったので盧泰愚大統領との架け橋を築くようになりました。(中略)金泳三総裁が民主正義党側に対し何を疑っているのか、何を不安と思っているかを把握しなければならない。そうしてこそ、YS(金泳三)の疑いを解くことができる。重光会長はそのような役割を主にしました」(*4)

 この頃から、日本でも韓国でも、重光には日韓関係の黒幕的なイメージがつきまとうようになる。初めは在日本大韓民国民団の経済的な支援者として活動していたが、40年もたつ間に、すっかり周りの見る目も変わってしまった。そして、韓国におけるロッテグループの成功によって、日韓におけるロッテの存在感も大きく変わることになる。次回は、韓国有数の財閥としての道を歩み、日韓で逆転するロッテグループの軌跡を取り上げる。

*4 『京郷新聞』1994年4月7日付

<本文中敬称略>