さまざまな都立高校での経験は、人間が本来持っている「よりよく生きようとする力」への思いを強めていった。これが栗原卯田子氏のマネジメント改革の根底にある視点だろう

栗原卯田子(くりはら・うたこ)
成城中学校・高等学校前校長、東京都立小石川中等教育学校元校長

東京・中野区出身。1976年東京学芸大学大学院修了(教育学修士)。東京都立高校の数学科教員となる。小松川高校と本所高校の教頭を経て、水元高校(葛飾区)最後の校長として赴任。中等教育学校を設立した小石川高校(文京区)に転じ、20代目校長として高校の最後を見届けつつ、中等教育学校の2期生を送り出すまでの6年間で定年退職。成城中学校・高等学校では8年間にわたり校長として、男子伝統校の復活に努めた。

高校から中等教育学校へ、都立小石川の改編

 千代田区に移管された九段も含めて、東京都内には11の公立中高一貫校がある。その中でも、旧第4学区のトップ校だった小石川は、現在も公立一貫校の中では一番の進学実績を誇る名門校である。開校2年目の小石川中等教育学校の校長として赴任した栗原卯田子氏は、いきなり三つの課題に直面した。

[聞き手] 森上展安・森上教育研究所代表
1953年岡山生まれ。早稲田大学法学部卒。学習塾「ぶQ」の塾長を経て、1988年森上教育研究所を設立。40年にわたり中学受験を見つめてきた第一人者。父母向けセミナー「わが子が伸びる親の『技』研究会」を主宰している。

――定年までの6年間、小石川の校長をされていたんですね。

栗原 後述しますが、葛飾区にあった前任校とはまるで違いました。熱い思いを持つ同窓会組織もしっかりしていますし、先生方もプライドを持っています。小石川の校長には教育行政の経験者が赴任するので、私のような経歴の校長は珍しかったと思います。最初の職員会議で、「人を育てるという意味では、前任校も小石川も同じです」と発言してひんしゅくを買いました(笑)。

 4月1日に校長として小石川に着任して、最初の重要な仕事は経営計画を策定することでした。ところがこのとき、中等教育学校のほかにも、私が最後の校長となる小石川高校全日制課程と、中等教育学校の給食施設の関係で既に一橋高校に移転していた小石川高校定時制課程の校長も兼任していたため、合わせて三つの経営計画をつくらなくてはならなくて大変でした。

――小石川でも毎朝、校門で生徒を迎えたのですか。

栗原 毎朝、玄関で生徒を迎えました。たまに中等教育学校の給食を生徒と一緒に食べることもありました。週に一度は千代田区東神田にあった定時制にも通い17時からの会議に参加しました。終了後、定時制の生徒と一緒に給食を食べたり、授業観察をしたり、部活動の様子を見たりして21時まで過ごすのは、週1回とはいえ、赴任1年目はきつかったです。

――伝統校という意味では、その後に校長を務めた成城も同様ですが。

栗原 小石川の初代校長は大正自由教育運動を担っていた伊藤長七で、隣に理化学研究所(理研)があったこともあり、理系教育に力を注ぎ、今でもその伝統が受け継がれています。

 伊藤より一回り年上で、成城の9代校長を務め、のちに世田谷に成城学園を創立する澤柳政太郎は元文部官僚で、東北帝国大学や京都帝国大学の総長も務めた大物でした。

 伊藤は諏訪、澤柳は松本と同じ長野県の出身ですが、1927(昭和2)年にナイアガラの滝で撮影された写真に二人が一緒に写っているのを見つけました。国際教育で接点があったようです。

――それで前回おっしゃったように、似た感じを受けたのでしょうか。

栗原 そうかもしれません。小石川の前身である府立第五中学は男子校だったこともありますね。

 第一印象は別として、小石川と成城の経験を比べてみると、違う雰囲気も実感しました。例えば共学校では思春期の男女がプールに入るような授業を一緒に行うのは難しいものがあります。その点、男子校では奇声を上げてプールに飛び込める(笑)。私はあのノリが大好きですし、男の子は火を付ければどんどん伸ばすことができます。だから成城の良さを守るために共学化してはいけないと思います。