「返書は無くした」と報告した
小野妹子の真意

 実際には、朝廷がまずその国書を受け取りました。しかししばらく中国と外交をしていなかった朝廷は、きちんと皇帝の意図を読むことができなかった。

 だいぶ上から目線の返書を下書きしているのですが、まあそこは外交です。かつて隋(ずい)の煬帝(ようだい)に使者を送ったときも「日出処(ひいずる)ところの天子より」とずいぶん盛った挨拶をしていました。当時の朝廷は遣唐使の時期とは違って、まさに夜郎自大(あろうじだい)。天皇ほど偉い存在はいない、という集団ですから「日本は神様が守る立派な国」だと、この時もずいぶんと上から目線で国書を書いたわけです。

 使節の小野妹子(おののいもこ)は隋の煬帝から「これはどういう意味だ?」と訊かれて、たぶんいろいろ言い繕ったことでしょう。その返書にはきっと「おまえら図に乗るなよ」というようなことが書かれていたはず。なお小野妹子は、朝廷に「返書は無くしてしまいました」と報告しています。恐らく、とても見せられないような内容だったのではないでしょうか。

 しかしそれでも、とにかく返書さえ出せば、間に立つ外交担当者がなんとかしてしまうこともできたというわけです。そしてこの当時の朝廷も返書の準備はしていたのですが、そこに待ったをかけた者がいた。それが幕府です。

時宗を英雄と言いがたい
これだけの理由

 北条時宗が「そういうことは私たちがやるから、朝廷は余計なことをしなくていい」と、朝廷から国書を取り上げた。平時の外交も、こじれれば戦争になります。外交も戦争も同じコインの裏表ですが、戦争できるのは幕府である以上、外交を担当できるのも幕府だけ。それで朝廷から国書を取り上げたのですが、取り上げておきながら、幕府は返事を出さなかった。

 その非礼に怒ったフビライが軍隊を送ってきた、と東洋史の研究者は見ています。しかも最初の文永の役(1274)は、現代の軍事行動で言えばどうも「威力偵察」だったらしい。威力偵察とは、敵の状況がわからないとき、敵と遭遇しても帰還できるだけのある程度の規模の部隊を送り、偵察を強行すること。

 まさに第一回の文永の役は、元にとって、この威力偵察だったわけです。だから日本の武士と少し戦闘を交わすと、すぐに帰っていった。これは神風が吹いたからではなく、もともと早期に帰還する予定だったというのが、現代の理解です。