それで敵情を把握した元は、2回目となる弘安の役(1281)で、本腰を入れて軍勢を送り込むことになるわけですが、実はフビライ、この弘安の役の前に、ちゃんと杜世忠(とせいちゅう)ら使者を日本へ送っていたのです。

「この間の文永の役で元の怖さがわかっただろう。だからきちんと挨拶に来い」と、杜世忠を始めとする5人の使者が送られてきた。しかし北条時宗は、なんとその使者全員の首を切ってしまう。非礼どころか、完全に野蛮国の振る舞いです。

 結果、激怒したフビライは、今度は10万人からの軍勢を送ってきた。しかしこのとき、恐らく本物の幸運で台風が来て、軍勢は難破してしまった。

 つまり、たまたま台風が吹いて難を逃れましたが、国を危険にさらす外交をするうえ、運任せで勝ったリーダーを、とても英雄とは呼べないのではないでしょうか。

それでも鎌倉から
動かなかった時宗

 では当時の北条時宗は、国際情勢をなにも勉強していなかったのでしょうか。ひとつ擁護すれば、「勉強しよう」とはしていたようです。

 勉強するに際して、誰を先生にすればいいかと言えば、当時、中国からかなりハイレベルな禅僧が日本にやってきていたので彼らから学べばいい。でも、なぜそんな僧侶が日本に来たかと言えば、モンゴルが攻めてきて日本へ逃げてきたわけですね。それでは当然、モンゴルのことをよく言うわけがない。むしろ「とんでもない勢力だ!」と言うわけです。それを聞いていたからこそ、北条時宗はきちんと対応できなかったのでしょう。

 しかし、それでも彼がそれなりにしっかりしていれば、1回目は止むを得ないとしても、2回目については万全の準備を整えてしかるべきでした。実は1回目はともかく、2回目もそこまで防衛準備は行われていなかったのです。

 なにより、北条時宗は九州まで行っていない。せめて総司令官として広島あたりまで行って、戦いを指揮するのであればまだわかるのですが、この非常事態でも鎌倉から動いていない。

 それでも結果論として、運が味方してくれたおかげで撃退できたのですが、しなくて済む戦争をやったわけで、ひとつ間違えるととんでもない事態を招いていた可能性まであった。

 もっとも、モンゴルは世界帝国を築いたせいで、ヨーロッパのペストが中国本土にまでやってきてしまっていたため、もれなく衰退してしまいます。そうすると結局、海を隔てて、しかも趙良弼の言うように特に占領する意味のない日本の独立は保つことができたでしょう。しかし、もしかすると北九州くらいはモンゴルに占領された可能性はあるかもしれない。