井上準之助
 日本の経済史の中で、井上準之助(1869年5月6日~1932年2月9日)の行った金解禁については、評価が分かれるところだろう。

 1914年に勃発した第1次世界大戦を機に、先進諸国は自国の金の流出を阻止すべく、金の輸出と自国通貨の金との兌換(金本位制)を停止した。日本も同様に17年、金の輸出を停止した。

 18年に戦争が終わると各国は金の輸出停止を解除していったが、日本は戦中と終戦直後こそ大戦景気に沸いたものの、その反動による戦後恐慌(20年)、関東大震災による震災恐慌(23年)や昭和金融恐慌(27年)に見舞われ、金解禁すなわち金本位制に復帰できずにいた。この間、一貫して金解禁政策を唱え続けてきたのが、井上だった。

 29年6月21日号と、翌7月1日号の「ダイヤモンド」に2号連続で、「金解禁には財政緊縮が急務」と題した井上の談話が掲載されている。記事では、金解禁は必須ではあるが、拙速に行うべきではなく、緊縮財政と財界整理(産業の構造改革)が不可欠だと主張している。

 そして、この記事掲載直後の29年7月2日、立憲民政党の濱口雄幸内閣が誕生し、井上は蔵相に就任する。濱口と井上を主人公にした城山三郎の小説『男子の本懐』では、大臣就任の夜、井上が妻の千代子に「自分にもしものことがあったとき、後に残ったお前がまごつくようではみっともない」と土地、預金などの財産目録を手渡すシーンが描かれている。まさに井上にとって金解禁の断行は命懸けの仕事だったということだろう。

 実際、蔵相就任後の井上は、金解禁の準備を猛烈な速度で進めていく。記事で述べている通り、緊縮財政による財政健全化を進めるために、すでに決まっていた29年度予算を5%削減。そして、産業リストラも片付けて半年後の30年1月11日、金解禁を発表する。当時、国民のあいだでも、金解禁という荒療治は、出口の見えない不況からの突破口になるとの期待が膨らんでいた。

 しかし、その3カ月前の29年10月24日木曜日、米ニューヨークの株式市場は大暴落に見舞われていた。ブラックサーズデーと呼ばれる「世界恐慌」の始まりである。しかし、当時はまだ世界経済は現在ほどリアルタイムにはつながっていない。井上らも当初は、株式暴落に対応して米ニューヨーク連邦銀行など欧米の中央銀行が金利を引き下げるのを、金解禁の上での楽観材料とすらみていたようだ。

 その意に反して、日本経済が米国発の世界恐慌の荒波にのみ込まれるのは、30年以降である(昭和恐慌)。濱口内閣は、金解禁に見合った為替相場を維持するためにデフレ政策を取っていたことから、金解禁から半年で日本の国内卸売物価は7%下落。デフレ不況となり、多くの企業が業績不振に陥る。大卒の就職率は12%と低迷し、小津安二郎監督の映画タイトル「大学は出たけれど」が流行語にもなった。

 果たして金解禁で好景気は訪れず、その後の国内・国際情勢の展開も含め、歴史的には失敗政策に終わるのである。2号にわたって掲載された井上の談話記事を、ここでも2週連続でお届けしよう。(文中敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

財政緊縮しないのなら
金解禁はしない方がまし

1929年6月21日号1929年6月21日号より

 結論から先に言うと、金解禁はできるだけ早くしなければならない。これをしないと日本の財界は本当に立ち直らない。

 しかし即時解禁はできない。これをやるには準備が必要である。政府が先に立って財政緊縮をやり、為替をパー(平価)に近づかせて、しかる後に解禁すべきである。――というのが私の意見である。

 あるいは、「財政緊縮はできない相談である。これを前提にすれば、結局、金解禁はできないことになる」と言う人もある。しかし、財政緊縮ができないということはない。また、財政緊縮をやらないで、金解禁をしても駄目だ。そうすると、長くその状態を維持することができない。再び元へ逆戻りをしてしまう。それでは何にもならない。むしろ初めから解禁をしない方がましだ。