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この連載では、著者の読書猿さんが「勉強が続かない」「やる気が出ない」「目標の立て方がわからない」「受験に受かりたい」「英語を学び直したい」……などなど、「具体的な悩み」に回答。今日から役立ち、一生使える方法を紹介していきます。
※質問は、著者の「マシュマロ」宛てにいただいたものを元に、加筆・修正しています。読書猿さんのマシュマロはこちら

「小説は結局、人生の役に立っているのか、ムダなのか」への超納得の回答Photo: Adobe Stock

[質問]
『小説を書く』仕事はそもそも善であり得るのでしょうか?

 はじめまして。自分はかつて作家を志していた事による興味関心から読書猿さんのブログに出会い、読書猿さんの記事やオススメされている本の数々にも影響を受けてきました

 それも助けになったのか、今は無事小説家としての道を歩み始める事が出来ています。

 さて、作家としての仕事とも関連するテーマなのですが、自分は長年人間についてもっと深く理解したいなという思いが強い所がありました。神経科学の本を読んだり、ラカンや河合隼雄などの心理学の本を読んだり、摂取した数々の物語から考察したり、実生活で色々な人に会ったりして、少しずつ理解を深めてきたつもりでした。

 その一環で、最近になって中沢新一の『レンマ学』という本を読んだのですが、この本はこじつけのようにも思える部分がありつつも、それ以上に仏教的哲学概念を数式で表現したり、ラカン・フロイトやユングと仏教的心理学の関係について述べたりしている部分が非常に面白かったです。

 さて、これをきっかけに仏教の哲学的側面、心理学的側面に個人的興味を持ち、ポー・オー・パユットーという方の『仏法』という本を読み始めたのですが、これが非常に面白く実践的な内容だと感じ、仏教的人間開発なる方法に興味を持って『大念処経』という本を読んだりもしました。これも、科学的エビデンスがない(エビデンスはブッダの悟りである)というだけで、たしかにこういう開発をやると人間は善くなるのかもなと思える、本質をついた内容であると思えました。

 自分は元々、宗教というものが集金装置・支配装置のように見えていて、今まであまり信頼を置いてこなかった所があったのですが、仏教の教えが自分の人間観や学問的知識と思いのほか対応している部分が多く、神を盲信するような教えとはかけ離れていて、その上で人間を善くするという目的意識で存在している思想である事に驚きました。

 そして今テーマとしたい所は、自分が職業としている『小説を書く』という仕事に、この新たな理解をどう活かせばより善い小説が書けるのか、逆にどう活かすと悪い小説になるのかという所です。

 また、『小説を書く』仕事はそもそも善であり得るのか、という事がまだ分かっていない所があり、このテーマが明らかにならない事での迷いも感じています。長くなりましたが、こんな最近の自分に関して、何かアドバイスなどありましたら、お願いします。

小説は、人を「生まれや育ち」から自由にする

[読書猿の回答]
 残念ながら、私は中沢新一氏の良い読者であったことがなく、またテーラワーダ仏教にも不案内で、本当はご質問にお答えする資格がないのですが、お伝えしたいことがあって筆を執りました。

 私は、小説を書く仕事、より広くは物語を生み出す仕事は、善であると、少なくとも人々を必ずや(程度の差こそあれ)自由にするものだと、確信しています。

 芸術家や創作者さんは、いつからか自分の仕事が何かのためになる(と主張する)ことを忌避することが多くなったらしいので、何者でもない私が言いますが、小説は(そして他の物語は)確実にこの世界をより良いものにしていると思います。

 図書館史の話になるのですが、今でも話題になるように、公共図書館の始まりから、図書館に小説を置くことの是非が論じられてきました。どちらかというと多数派は「小説をおいて利用者に媚びるのはいかがなものか」みたいな意見でした。

 図書館史の中で、図書館に小説を置くことの意味が肯定的に捉え返されるようになったのは、受容研究や読者研究、すなわち人々は本をどのように読んできたかについての知見が蓄積されてからです。後知恵的にいうと、図書館史はここでようやく図書館の現実に、そして図書館利用者に追いついてきたのだと言えます。

 小説の読者に対して「もっとちゃんとした本を読め」という人は古くからいました。けれど、彼らは小説がどのように読まれているか、読者がそのことを通じて自分の人生や生活をどのように作り変えているかを考えようともしませんでした。ただただ「暇つぶし」や「現実逃避」だと信じていたのです。

 けれど小説の読まれ方はもっとずっと多様でした。読者たちは、例えば他人とつながるためにも、一人になるためにも、小説を読みました。自分の価値を実現するためにも、再考するためにも、あるいは自分たちに押し付けられる役割を考え直すためにも、小説を読んだのです。

 例えば、今では忘れ去られた、ヴィクトリア時代の道徳くさい平凡な家族小説が、自分とは違う人生に小説を通じて触れることを通じて、その読者だった女性たちに課せられていた社会的地位や役割を対象化し再考する糧になっていました。読み捨てられ、後世にほとんど残ってないような平凡なフィクションが、当時の社会規範の足元を掘り起こす潜在的な力を持っていたんです。

 だからこそ、読みべき書物を指導したがる人たちは、女性が、それから黒人や下層階級の人たちが、小説を読むことを嫌がり、批判しました。

 小説や物語が人を自由にし得るのは、それらが読み手を「今ここ」から、離脱させることができるからだと思います。「他なるもの」に触れない限り、ヒトは自身を認識できません。今現にあることから距離を取り、今と異なる未来を構想することもできないのです。

 今回得られた知見をどのように小説に生かしていくのが良いのか、私には考えることができません。ですが、それが「新しい理解」なのであれば、次に生み出されるものは、私達を更に「他なるもの」へ導いてくれるものと思います。