彼は現場から逃げ出し、必死で2~3キロ南の下笠村(現在の草津市)までたどり着き、村人に助けを求める。これにより兵庫の凶悪犯罪はたちまち露見し、大量殺人の事実は山伏の総本山聖護院にまで知られてしまうことになる。憤激した聖護院側は事の次第を室町幕府に訴え出て、事態は一人の海賊の逸脱行為にとどまらず、堅田全体の責任を問う流れとなっていく。

 事態の推移に慌てた堅田の住人たちは、事件を起こした兵庫と、その父・弾正の行方を追う。そんなことになっているとも知らない兵庫親子は、琵琶湖の北端の村、海津(現在の高島市)にいた。おそらく彼らは琵琶湖を股に掛けた交易活動を展開しており、日夜、堅田にとどまらず、様々な琵琶湖の港湾をビジネスで飛びまわっていたのだろう。しかし、堅田からの飛脚で、わが子の犯した取り返しのつかない過ちを知った父弾正は、穏やかな口調で次のように語った。

 「他人の身代わり、ましてわが子の身代わりに、わし一人が腹を切って、その首が京都に上ることになれば、堅田に災いが降りかかることもあるまい……」

 そういって弾正は堅田に急いで戻ると、自分の屋敷に戸板や畳を用意して、冷静な様子で切腹を行い、みずから命を絶った。彼の首はすぐに京都に届けられ、これにより聖護院の怒りはなだめられ、以後、堅田全体に事件の責任が波及することはなかった。
 
 しかし、自分の浅はかな行いによって父の命が失われたことを知った当の兵庫の衝撃は大きかった。世の無常を思い知った彼は、そのまま俗世を捨てて、遍歴の旅に出てしまう。そして近江の比叡山、紀伊の高野山・根来寺・粉河寺、大和の多武峰など、全国60余州の霊仏霊社に足を運び、魂の救済を求める。

 ところが、「五逆十悪の罪人」である彼の魂を救済する寺社など、どこにも見つからなかった。そんな彼が最後に生まれ故郷の堅田の鎮守、大宮に戻り、百度詣でを行い、お籠りしていたところ、彼の夢のなかに神が現れる。その神の啓示するところによれば、本福寺を訪ねよ、とのことであった。はたして彼は本福寺に赴き、そこで浄土真宗に帰依し、阿弥陀如来への信心に目覚めるのだった。その後の彼の信心の堅固さは並みのものではなく、「悪に強きものは善に強き」とは、まさに彼をこそ指し示す言葉であると噂された――。