とはいえ、私たちもそんな彼らの人間観を野蛮なものと軽蔑することは許されないだろう。海外の見知らぬ国で大規模なテロや事故が起きた際、決まって「この事件での日本人の犠牲者は確認されませんでした」などと臆面もなく報道されるテレビニュースや、それを聞いて少しほっとした気持ちになってしまう私たちの心性にも、それと似たものがありはしないだろうか?

 私たちも知らず知らずのうちに「日本人」と「外国人」と、人間の生命の重さに一定の偏差を設けているのである。そう、中世日本人にとって、村や町の人と、その外部の人の間には、現在の私たちでいうところの「日本人」と「外国人」に似た、あるいはそれ以上の、小さからぬ隔たりがあったようなのである。この心性が、中世社会において、様々な悲喜劇を巻き起こしていくことになる。

 なお、この事件を起こした兵庫が、最後に心の拠り所にした浄土真宗は、鎌倉時代に親鸞(1173~1262)が興した宗派として広く知られている。親鸞時代にはさほど有力ではなかった浄土真宗であるが、この時期、親鸞の「悪人正機」(自力で功徳を積むことができない「悪人」こそがむしろ救われる)の思想が多くの人々に受け入れられ、一気に教線を拡大する。さらに戦国時代になると、その力は一向一揆として、世俗権力を圧倒するまでの勢いを示すようになる。

 しかし、一方でそこに身を投じていった人々は、兵庫のような殺人をものともしない真の「悪人」で、しかも水運業に長けて、首都圏の富の動きを一手に握るようなたくましい者たちでもあった。浄土真宗本願寺教団は、そんな全国各地の「日本版梁山泊」と、そこに拠る山賊・海賊的な人たちを束ねて組織化することに成功した。戦国大名や織田信長(1534~1582)を震撼させた一向一揆の強さの秘密の一端は、そんなところにもあったのである。