この大工事の一環として、新たな放水路と旧江戸川の分岐点に設置されたのが水閘門(すいこうもん)である。川の水位が高くなった際、その水が逆流しないように食い止める設備で、設置工事開始から7年をかけ、1943(昭和18)年に完成した。

 水閘門の完成により、もともと江戸川が流れていた水路は「旧江戸川」、新たにできた放水路のほうを「江戸川」と呼ぶことになった。

 万事無事に解決したかと思われたとき、浮上したのが県境問題だった。流れの分岐点となる水閘門が完成した後には、旧江戸川の流れと江戸川に枝分かれしていく場所に三角州が形成される。旧江戸川が西寄りにやや進路を変えたため、従来の境界線は旧江戸川の中心線ではなくなった。三角州にできた陸地を通ることになったのである。

 県境問題が表面化したのは1978(昭和53)年。市川市は新たな流路となった旧江戸川の中央部に合わせる形で、境界線を引き直すべきだと主張。これに対し、江戸川区は従来までの境界線を維持すべきとし、三角州の土地の一部は江戸川区の土地になると主張したのである。

 江戸川区と市川市の間で、新たな境界線を策定する話し合いが行なわれたが、互いの主張は平行線を辿り続け、現在も解決には至っていない。三角州には住所が特定できておらず、「河原番外地」という通称で呼ばれている。

 土地開発は行なわれておらず、ひとりの住民も住んではいない。唯一、国土交通省の「江戸川河川事務所江戸川河口出張所」が建てられているのみだ。解決の糸口はいまだに見つかってはいないが、ゴミ問題などで協力関係にある両者は、事を荒立てたくないという気持ちもあり、県境問題の解消には積極的とはいえないようだ。