いじめられた側は「過去のこと」として許せない
被害者は「黙って我慢」なのか

 いじめの被害者にとって、いじめを受けたこと自体、それ以上に深刻なのは、いじめの後遺症だと指摘されている(『「いじめによるトラウマ、後遺症は残る」精神科医 斎藤環さんに聞く』)。いじめから逃れることができた後、穏やかな日々が訪れるわけではないということだ。いじめが終わった後に、いじめのことをフラッシュバックし、時には別人格になる解離性障害などの「後遺症」を発症することがあるというのだ。

 後遺症が出ると、平穏な日常生活を送れなくなることも多い。自死に至ることもあるという。そして、その人を支える家族や周りの方々にも、長期間にわたる苦難の日々をもたらしてしまうのだ。

 一方、いじめによって一時の快楽を得た側は、被害者やその家族たちの苦しみを知ることはないことが多い。普通に生活し、被害者のことを「いい友人だった」と認識していることも少なくないという。

 つまり、いじめは加害者側には一時的なことでも、被害者側にとっては一生背負う苦しみになる。

 「いじめ後遺症」は、いじめが終わり、加害者と距離を取った後に発症するので、いじめとの因果関係の証明が非常に難しい。そもそも、いじめで自死したケースでさえ、その証明には大変な困難があるのは、よく知られている。ましてや、いじめ後遺症となると、どこにも訴えることができず、被害者と家族たちは、黙って耐えるしかないのだ。

 ゆえに、いじめは「謝罪」するだけでは十分ではない。また、「過去のこと」として許すことはできない。被害者とその家族たちにとっては過去のことにならない。現在進行形で続いていく苦しみだからだ。

 「障がい者」の方々も同じである。いじめを受けた方は多いだろう。それでも日常生活のさまざまな困難を乗り越えてこられた。そして、障がい者を支えてきた方々も、自らの人生をささげるかのごとく、大変なご苦労をされてきたと思う。

 小山田氏のいじめ告白の全文を読んでみたが、ひどい蔑視発言が並んでいた。これは、五輪憲章に違反している部分があるかという問題ではない。五輪憲章に真っ向から喧嘩を売るような内容だと感じた。

 組織委員会は、困難な状況にあるいじめ被害者とその家族たちに、小山田氏が開会式の作曲担当を続けることを、どのように「理解し、支えよ」といっていたのだろうか。いじめの被害者・障がい者は、東京五輪という国家的大事業の開催のために、自らの存在を全否定するような人物が作曲した音楽を聴かされ、黙って我慢せねばならないと、組織委員会は言っていたのだろうか。

 組織委員会は自分たちが一度は決定した「小山田続投」の重みを、小山田氏が辞任したからと言って、なにもなかったことにしてもらいたくない。