東京タワーとスカイツリーから見える、日本の変化

 冒頭に触れたWeiboのライブ配信では、私は64年東京五輪と今回の東京五輪の比較として、東京タワーと東京スカイツリーの美を使って説明した。

 東京タワーの美は中国語で言えば、「陽剛」の類に入る。スカイツリーは「陰柔」の美を見せる。前者は力強い気概・風格、野性味にあふれた精悍(せいかん)な男らしさを表現するときによく使われる。後者は、繊細な美しさを表す際に用いられることが多い。

 強烈な光で自らの存在を強調している東京タワーはどこか荒々しいところがあり、高度経済成長期の日本の力強さを表現していると私は思う。一方、世界有数の富裕国になった今の日本は、以前よりもっと繊細さと上品さで自らの存在を強調する時代に生きている。それぞれの時代のランドマークとして誕生した東京タワーと東京スカイツリーは、そのそれぞれの時代の美意識を映し出している。

 7年前に、私は別のコラムで、スカイツリーの美に対して、次のようにやや毒舌コメントを記したことがある。

「成熟した美を見せてくれているスカイツリーのどこかには、『夕陽無限好、只是近黄昏』のような哀愁が漂っている気がする」

「夕陽無限好、只是近黄昏」とは唐の李商隠の詩である。夕日は素晴らしいけれども、ただ、黄昏(たそがれ)に近い、最盛期が過ぎた、という意味だ。

 日本に生活基盤を置いている以上、私は「黄昏」に傾いていく日本に対してどことなく抵抗感を覚えている。昼頃の力強さがなくても、午後2時、3時頃の元気さは保ってほしいと思っている。その意味でも、老朽化が噂されている東京タワーの存在はまだ捨てがたいものだ。

 ここ2、3年、スカイツリーの照明はかなり改善された気がする。東京五輪の開会式に見られた問題は、日本の成熟した美をいかに世界の人々に伝え、共感を誘えるように見せるか自己分析しきれていないということだろう。日本はそこに、もっと磨きをかけるべきだ。

 開会式だけでなく、大会全体も今後の日本の進路にいろいろな考えるべき課題を残してくれるだろう。

(作家・ジャーナリスト 莫 邦富)