正力松太郎
 1953年12月、米アイゼンハワー大統領が国連総会で行った「原子力の平和利用」についての演説を機に、唯一の被爆国である日本の原子力政策が動き始めた。電力などの原子力の平和利用に関しては関連技術を同盟国に供与するという米国の方針に応え、わずか3カ月後の54年3月には戦後初の原子力予算が計上された。中心にいたのは改進党(現自由民主党)で予算委員会の筆頭理事だった中曽根康弘である。

 ところが、米軍によるビキニ環礁での水素爆弾実験で、第五福竜丸が被爆するという事件が発生、反原子力の世論が高まる。そこで動いたのが、当時読売新聞社社主だった正力松太郎(1885年4月11日~1969年10月9日)である。紙面や設立間もない日本テレビ放送網でも原子力推進の論陣を張り、米国から原子力関連企業や研究者からなる「原子力平和利用使節団」を招聘して全国でイベントを行うなど、積極的にPR活動を繰り広げた。それどころか55年2月には衆議院選に出馬。当選を果たすと、第3次鳩山一郎内閣で初代の原子力委員長に就任する。そして就任早々、日本に原子力発電所を5年後に建設するという構想をぶち上げるのである。

 元々は警察官僚だった正力は、警務部長のとき起きた「虎ノ門事件」(摂政時代の昭和天皇が狙撃された暗殺未遂事件)の責任を取って退官。当時は弱小紙だった読売新聞を買収して社長に就任すると、飛躍的に部数を伸ばした。戦後は、 A級戦犯として巣鴨拘置所に収容された後、公職追放となるが、不起訴で釈放されて以降は、日本へのテレビ放送の導入(『正力松太郎が自ら語った全国テレビ放送網構想、その“対米従属的”内容』)にしても原子力発電にしても、米国の意向に大いに呼応した働きに傾いていった。

 今回紹介するのは、「ダイヤモンド」1956年4月21日号に掲載された正力松太郎(1885年4月11日~1969年10月9日)のインタビュー。70歳の新人議員だった正力はこのとき、原子力担当大臣委員会委員長と北海道開発庁長官を兼任し、この翌月には科学技術庁の初代長官に就任予定だった。本誌でも、原子力推進について怪気炎を上げている。ちなみに、インタビュアーは当時のダイヤモンド社顧問、星野直樹である。満州国の国務院総務長官として実質上の行政トップを任じ、第2次世界大戦中は東条英機首相の側近を務めた人物だ。

 冒頭、正力は「広島、長崎のピカドンの思い出におびえ、ビキニの水爆実験の被害におののく日本人の気持ちが、もっと原子力を理解する方向へ向くようにしなければいけない」との思いを語っている。確かに、戦後の日本にとって、科学技術は復興の最大のよりどころであり、実際のところ高度成長に“電気”は欠かせないファクターではあったことを考えると、原発推進に一定の理屈は通る。しかし、それらは単なる正力個人の純粋な思いだけから発せられたものではなく、GHQ(連合国軍総司令部)による占領政策の延長線上にある米国の手のひらの上での話だったと想像せざるを得ない。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

原子力恐怖の世論を
一掃しなければならない

――今日は原子力の問題を、いろいろ伺いたいと思います。まずあなたが、国務大臣として原子力担当を、引き受けられたことから話してください。

週刊ダイヤモンド1956年4月21日号1956年4月21日号より

 僕は、原子力が平和産業に重大な役割を果たすものだと知ったとき、まず感じたことは、日本人の原子力に対する考えを、何とかして改めねばということでした。広島、長崎のピカドンの思い出におびえ、ビキニの水爆実験の被害におののく日本人の気持ちが、もっと原子力を理解する方向へ向くようにしなければいけないと思いました。それで大臣就任の機会に、大いに原子力の平和的利用面を宣伝しようと決心したわけなんです。

――あなたは在野時代にもこのために、いろいろ努力されていましたね。