松下電器産業社長山下俊彦
 1977年2月、松下電器産業(現パナソニック)で下から2番目(取締役26名中、序列25番目)のヒラ取締役が、いきなり社長に就任するという仰天人事が行われた。松下電器の3代目社長となった山下俊彦(1919年7月18日~2012年2月28日)である。当時、活躍していた体操選手、山下治広の跳馬の技にちなんで「山下跳び」と呼ばれた。

 松下電器の創業者は言わずと知れた経営の神様、松下幸之助である。61年、まだ66歳だった幸之助は、49歳の娘婿、松下正治を2代目社長に指名した。幸之助は退任会見の席で「早めに経営の第一線を退き、後継者を養おうと思った」と語り、正治の経営手腕を実地で試し、育てていこうと考えたが、正治は幸之助の期待に応えることができなかった。業を煮やした幸之助は、わずか3年後の64年に、「代表取締役会長・営業本部長代行」の肩書で前代未聞の前線復帰を果たす。これにより、松下電器の経営体制は二重構造が定着してしまった。

 そして、幸之助が次に選んだのが山下だった。当然ながら異例の抜てき人事で生まれた3代目社長の手腕には大いに注目が集まったが、山下の活躍は想像以上だった。就任以来、毎年のように最高決算を計上。9年間の社長時代に、松下電器を家電専業メーカーから総合エレクトロニクスメーカーに方向転換させ、売上高、営業利益をそれぞれ2.6倍に押し上げた。

 今回紹介するインタビューは、「週刊ダイヤモンド」1983年8月20日号に掲載されたものだ。山下はすでに、松下電器を単独で2兆6000億円、連結では3兆円を優に超える巨大企業に育て上げていたが、山下は「大きいというのは非常に危険ですね」と率直に語っている。「安心感から活力がなくなる」というのである。特に「家電の販売で強い」というのは油断を生みやすく、だからこそエレクトロニクスにシフトしていこうというときに障害になるという考えを披露している。

 いまでもパナソニックに山下の信奉者が多いのは、こうした慧眼と、経営に対する姿勢の厳しさ故だろう。幸之助に見いだされた立場にもかかわらず、創業家に忖度することなく、フェアなスタンスを貫いた。権力の二重構造の弊害を幸之助の相談役時代に痛感していたこともあるのだろう、重要事項を協議するのは新設した常務会とし、会長だった正治が常務会に出席することをきっぱりと拒否し、松下家とは距離を置いてきた。

 86年に社長退任した後は、「新社長の邪魔をしたくない」という思いから、会長職は辞し、取締役相談役に就任。経営にはタッチしない一方、重要局面では“相談役”としての存在感を発揮する。その一つが、97年に、当時、副社長に就任したばかりの松下正幸(正治の息子)について、あるパーティーで記者に語った「幸之助氏の孫というだけで、副社長になるのはおかしい」との発言だ。幸之助の死後、隠れた経営課題としてくすぶっていた松下家の世襲問題に、批判的な立場を明らかにしたのである。

 山下の“アシスト”が効いたのか、正幸の社長就任はついえ、以降、松下家からトップが出されることはなかった。2008年には社名がパナソニックに変更され、松下の名すら消えたが、その種まきをしたのは山下にほかならない。(文中敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

暗い方ばかり向いていると
企業もやっぱり暗くなる

1983年8月20日号1983年8月20日号より

 景気は良くなっているんじゃないですか。私ども実際の仕事を通じてそう思います。ビデオなんか実際良くなっていますからね。ビデオは、ご承知のように、ほとんど日本が造っていますからね。まだ普及率も低いものですから、景気が良くなると、やっぱり輸出も多くなります。国内もビデオなんかは増えていますね。

――山下さんは海外にしょっちゅう行かれるようですけれども、世界全体の景気はどうですか。

 アメリカが良くなれば、影響が大きい。パワーのある国ですからね。だから良くなるんじゃないですか。

――すると、好景気が間もなく来るとみていますか。