歴史が、女性の犠牲の上に
経済成長していると証明

「そんなのは貴様の勝手な妄想だ」と怒られるかもしれないが、歴史を振り返ってみても、日本企業の成長が、女性の低賃金労働者の犠牲に上に成り立ってきたという動かし難い事実がある。その象徴が「職業婦人」や「労働婦人」だ。

 よく「専業主婦は日本の伝統」みたいなことを言っている人がいるが、それは事実と異なる。江戸時代の庶民は夫婦同姓でもないし、「共働き」が基本だ。明治になってからも女性は積極的に社会に出て働いた。彼女たちは「職業婦人」「労働婦人」と呼ばれ、国家としても推奨をしていたのだ。

 むしろ、「専業主婦」とは戦争が長引き、「女は家庭で銃後を守れ!」みたいな全体主義的ムードによって生み出されたニューノーマルで、日本の女性は外で働く方がデフォルトだった。なぜかというと、女性は日本経済に欠かせない「低賃金労働者」だったからだ。

 例えば、作家として多くの作品を残した堺利彦は、1925年(大正14年)に発刊した「現代社会生活の不安と疑問」(文化学会出版部)の中でこう述べている。

<先ず女工。これが何と云っても第一番の労働夫人です。今日の資本制度は女工がなくては立ち行かない。紡績女工、製糸女工、その他いろいろの工場に働いている女工、彼等があつてこそ日本の資本家は富んでいるのである>

 いかがだろう。令和日本と丸かぶりではないか。スーパー、コンビニ、飲食店などさまざまな職場で、安い時給で働いているアルバイトやパートの女性の方たちがいてこそ、これらの企業は利益をたたき出せていることに異論はないだろう。

「東京2020」で来日した世界中のアスリートやメディアが、安くて高品質な商品やサービスを取り揃える日本のコンビニを称賛したように、日本経済はデジタル技術やイノベーションではなく基本、「低賃金労働」が支えている。つまりはパートやアルバイトという「現代の女工」の犠牲の上に成り立っているのだ。

 この社会の理不尽さは、大正時代の日本人も気づいていた。堺利彦も日本経済が「労働婦人」を人身御供にしている現実をこう指摘している。

<彼等はそれほどに安い賃金で善く働くのである。彼等はそれほどに都合よく搾り取られるのである。其の代り、彼等の大部分は肺病になりつつある。彼等の中には折々堪りかねて逃げだそうとするのがあるが、大抵は巡査につかまつて引き戻される。一ばんに役に立つ者が一ばんに虐げられている。それが今の社会の実情なのである>(同上)

 100年が経過しても、この社会構造は基本的に何も変わっていない。というか、さらに事態が悪化している。多くの女性に低賃金労働を強いておきながら、「日本は男女平等だ!」「無理に女性比率をあげるのもどうかと思う」という声も増え、女性の非正規雇用は死ぬまで低賃金労働に従事すべし、という無言の圧力が強まっている。

 タリバンが女学生に黒い布を被せて、「タリバンは女性の人権を尊重してくれます」というような擁護デモをやらせたと話題になっているが、日本の場合は心の底から自分たちが、男女平等だと思っているところがタチが悪い。

 賃金はある程度低くないと企業は経営できない、という「低賃金原理主義」から脱却しない限り、日本社会の「タリバン化」はさらに進行してしまうかもしれない。

(ノンフィクションライター 窪田順生)