人間が生きてゆくために最も大切な自然環境という社会的共通資本を、資本主義のもとで、無料の自由財として勝手に利用し続けることを許してきた(その件に関しては、宇沢のかつての同僚、フリードマンの影響は大きい)ことが、人類全体に対して途方もない脅威をもたらしてしまったと記す。

「地球温暖化を何とか防いで、安定した自然環境を長い将来にわたって守ってゆくためには、どのような道があるのであろうか。社会的共通資本の理論からただちに導き出されるのは、炭素税、二酸化炭素税、もっと広くとれば環境税である。炭素税は、さまざまな生産の活動にさいして、大気中に放出される二酸化炭素の排出に対して、そのなかに含まれている炭素の量に応じて、一トンいくらというかたちで、徴収するものである」

 宇沢はまた、発展途上国にも炭素排出削減のインセンティブを作るために、大気中への二酸化炭素の排出にかかる炭素税は、その国1人当たりのGDPに比例させることを提案している。

宇沢の予言通り引き返せない
レベルまできた地球温暖化

 さて、本書発表から20年がたち、2000年以降も格差はますます広がり、分配的公正は実現されず、地球温暖化はもう取り返しのつかないところまで来てしまった。新自由主義的経済の継続によって生み出された昨今の状況を見るに、宇沢の懸念はさらに悪化した形で現実化したと言える。

 社会共通資本にまで利潤追求の市場原理を拡大したことの問題、国家官僚による間違った誘導はまさにその通りである。しかしながら、解決策として宇沢が主張した専門家による管理は、実現性に乏しかったように思えるし、実施してもうまくいかなかっただろう。

 専門家と呼ばれる人々が、自分の領域を超えることへの対応や、領域のゆらぎに対して極端に乏しい対応力しか持っていないことは、コロナへの対応を見るまでもなく、過去20年のあいだのさまざまな災害や有事への対応で、明白になったからである。

 冒頭で述べたとおり、SDGsやESG投資、地球環境を中心とした社会的共通資本の重要性の認識が急速に高まりつつある。温暖化対策として宇沢が提唱した炭素税の本格的な導入は、欧米のみならず、日本においても積極的に検討され始めている。このような動きがもし20年前に起こっていれば、持続可能な経済発展は実現できたかもしれないが、すでにもう時間切れという主張も見られる(私もそうではないかと危惧している)。