太平洋戦争の終戦直後に
伊藤忠が取り扱った品々
太平洋戦争が終わり、食うや食わずのなか、外地にいた社員が引き揚げてきて、大建産業の商事部門(伊藤忠)は苦肉の策でその日暮らしをするほかなかった。
工場が残っていたメーカーであれば資材を求めて戦前と同じ仕事をすればいいけれど、モノを持っていない商社はまず社員が飢えないようにしてから、扱う商品を探すしかない。
全国の60カ所に支店、出張所を作ったが、それは地方へ行った方が住居と食べ物が手に入りやすかったからだ。社員の地方分散は飢えから脱するための経営施策だったのである。
取り扱いを始めた商品は在庫の繊維製品と雑貨類からだった。雑貨は種々雑多で、次のようなものである。
しょうゆの素、福神漬け、干しエビ、ブドウ糖、ソーセージ、カレー粉、ところてん等
●家庭用品
鍋釜、金盥、刃物、大工道具、砥石、ひしゃく、茶わん、ろうそく、買い物かご、履物、鼻緒、園芸用品、熊手等
●薬品
医薬品、化粧品、石けん等
●道具、工具類
製粉機、わら切り機、スコップ等
前述の越後正一は日本に帰国してから、金沢支店長を任された。
「私は金沢支店長を命ぜられ、金沢支店と福井、富山の両市に出張所を開設する命を受けた。
金沢着任は(昭和)21(1946)年の1月だったが、支店はつくっても取り扱う商品は全くなかった。
しかたがないので、おもちゃ、ローソクの照明器具、和歌山、静岡のみかん、何の肉かわからないソーセージ、化粧品等々、何でも取り扱ったが、野菜の端境期には美濃の干し大根がよく売れたものだ」(『私の履歴書』日本経済新聞社)
越後は戦前から戦後までの8年ほどの間、繊維商社員ではなく、何でも屋のおじさんだったことになる。だが、これは他の商社で働く人間もまた変わらなかっただろう。
今でこそ、フレキシブルな行動が商社パーソンの体質と言われているが、敗戦直後の方がはるかに融通無碍(ゆうずうむげ)に仕事をしていた。商社員に限らず、人間は切羽詰まればどんな仕事でも対応できるということなのだろう。