伊藤忠商事Photo:JIJI

公職追放令により
社会の上層部が若返り

 戦前から働いていた経営者にとって公職追放は過酷な政策だったかもしれない。けれども、日本経済のその後にとって、公職追放は悪い面ばかりではなかった。GHQは戦争を生む体制をなくすために行ったが、副次的な効果として、日本社会の若返りにつながったのである。

「政治家から経営者まで、一斉に交代したことが良かった」

 こう言ったのはかつてセゾングループの総帥を務めた堤清二である。

 西武百貨店に入社して経営にかかわる以前、堤は衆議院議長だった父親、堤康次郎の秘書を務めていた。佐藤栄作、田中角栄といった有力政治家や高級官僚と話ができたのである。一方で、堤は詩人であり作家の辻井喬でもあった。三島由紀夫をはじめとする文学者とも親しかった。日本の政治経済、文化の中枢にいる人間たちと交流を持っていたのである。

 堤がつくづく言っていたのは、「公職追放がソニー、ホンダ、西武百貨店を生んだ」ということだった。

「公職追放では明治生まれの老人経営者が一斉にいなくなったのです。この、一斉にというところがミソなんです。老人がいなくなり、30代、40代の若い経営者が会社を代表するようになりました。そんな時、たとえば銀行の頭取だけが老人だとしたら、新しい産業のことを理解しないし、融資もしてくれませんよ。ホンダ、ソニー、西武百貨店といったベンチャー企業が出てきたのは銀行の頭取もまた若返ったからです。若い人同士だから、新しいものの価値がわかったし、話が早かった」

 公職追放の結果、日本社会の上層部が若返り、新しいもの、アメリカからやってきた商品やサービスを肯定的に評価する気風が生まれた。戦後改革の成果のひとつは、若いという価値、新しいという価値が世の中で重きを置かれるようになっていったことだろう。

 堤が生きていたら、「社会の中枢が若返りすればいいんです。令和の政治家、経済人でお年寄りの人たちを一斉に追放すれば日本経済に活力が生まれます」と言ったのではないか。

 さて、敗戦後、大建産業から分かれ、元に戻った伊藤忠にとって社会環境はそれほど悪いものではなかった。

 敗戦の年から4年ほどは食うや食わずで、どんなものでも扱う商社だったが、繊維産業は重化学工業よりも立ち直りが早かった。繊維産業は国内需要と輸出で国の主産業となったのである。

 1949年、ドッジ・ラインと呼ばれた経済安定策によって日本は深刻な不況に陥っていたが、翌50年に勃発した朝鮮戦争は特需をもたらした。アメリカ軍向けに武器や弾薬の製造、軍用の自動車や機械の修理など、膨大な需要(朝鮮特需)が生じたのである。

 朝鮮特需の後は戦後復興が進み、世界的に景気が回復する。アメリカ経済は順調で、日本からは対米輸出が増えていった。

 輸出の中心は繊維製品だった。繊維産業はガチャンと織機を動かすと1万円の利益が上がるとされ、「ガチャマン景気」という言葉が生まれたほどだった。

 日本の復興も順調に進み、51年には、工業生産、実質国民総生産、実質個人消費などが戦前の水準(1934~1936年平均)を回復するに至った。