永田雅一・大映社長
 前回に続き、1951年12月15日発行の「ダイヤモンド」臨時増刊号に掲載された大映社長の永田雅一(1906年1月21日~1985年10月24日)の談話記事である。強烈なワンマン経営者として知られ、その大言壮語ぶりから「永田ラッパ」の異名を取った男だ。

 永田は、かつて存在したプロ野球チーム、大映スターズ(千葉ロッテマリーンズの前身)のオーナーでもある。36年に「日本職業野球連盟」が設立され、東京巨人軍(現読売ジャイアンツ)、大阪タイガース(現阪神タイガース)、名古屋軍(現中日ドラゴンズ)、阪急軍(現オリックス・バファローズ)、大東京軍(現横浜DeNAベイスターズの前身)、東京セネタース、名古屋金鯱軍の7球団によるリーグが開催された。その後、チーム数は増減を繰り返しつつ第2次世界大戦を乗り越え、終戦後は1リーグ8球団で興行されていた。永田がプロ野球に参入したのは48年で、当時の金星スターズを買収したことによる。

 現在のセントラル・リーグとパシフィック・リーグの2リーグに分裂したのは49年。2リーグ構想をぶち上げたのは巨人軍の初代オーナーである正力松太郎で、当初は8球団から10球団にし、段階的に12球団に増やし2リーグ制へ移行するもくろみだったが、既存球団の思惑や新規参入の動きが入り交じり、たった1年で12球団による2リーグ制という体制が出来上がった。このとき、永田は正力と共に球界再編成で中心的な役割を果たし、パシフィック・リーグの初代総裁に就いている。記事では、そのときの裏話を披露している。

 記事の後半は、馬主としての話題である。なにしろこの年、永田の所有するトキノミノルは、デビューから10戦無敗で皐月賞、日本ダービーを制し2冠を達成している。ところが、ダービー制覇から間もなく、破傷風で急死してしまった。

「本当に神馬といってもいい不世出の名馬だった。あれの死によって残念ながら実現できなかったけれども、外国のサラブレッドと競争させたかった。僕は負けないという確信があった。(中略)トキノミノルがもし外国に行っておったら完全に欧米諸国の一流の馬と伍して勝るとも劣らなかったと思う」と“ラッパ”を吹いている。

 もっとも、映画事業でも成功を収めた大映だったが、テレビ時代に入った60年代以降は映画産業全体が斜陽化。永田のワンマン経営による組織のほころびもあり、71年に経営破綻してしまう。プロ野球チームもロッテ(現千葉ロッテマリーンズ)に譲渡し、オーナーの座を離れることとなった。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

プロ野球がセ・パの
2リーグになった経緯

ダイヤモンド1951年12月15日号1951年12月15日号より

 セントラルとパシフィックの二つのリーグが昨年(1950年)からできたが、その起因を一応知ってもらう必要がある。

 ご存じの通り、日本には日本野球連盟があって、8球団をもって1リーグを構成しておった。ところが米国でも、1リーグの理想は8球団であるけれども、これは鉄則でなかった。六つのときも10のときもあった。日本でも1連盟ではいけない、2連盟をつくって選手権試合をやろう。しかしすぐ2連盟にはできないけれど……一昨年(1949年)正力松太郎氏が、

「永田君、1リーグ8球団で、2リーグ制が理想であるが、一遍に飛躍できないから、とりあえず来年度、すなわち1950年度を10球団にして1連盟でいこう。そして1951年度にまた二つ増やし、そこで1リーグ6球団の2リーグ制をやり、日本選手権を争おうじゃないか……。

 こうすることが日本のプロ野球の漸進的なものの考え方だと思う。それで今8球団あるのだが、とりあえず2球団増やすとしてどこを入れるかね。関西から毎日を入れたいと思うが、どうだ」と言う。

 僕は「プロ野球のことについては、あんたが大先輩だから、なんなりと大いに協力しましょう」。

 そこで正力氏と私が毎日新聞社の本田(親男)氏に会ったわけだ。ところが毎日は野球なんかといった調子で乗ってこない。そこで正力さん乗らんじゃないかといったら、話を持っていってすぐ乗るのは安っぽくなるからね……と言っていた。

 僕もちょうど暇になったので、米国へ出掛けた。2、3カ月して帰ってくると、「毎日も腰を上げて花道に出たそうだ。この分なら大丈夫だ」という話であった。そして今度は逆に毎日が積極的になってきた。