農協の大悪党#16・中川泰宏氏Photo:kyodonews

JAグループ京都会長の中川泰宏は2005年の郵政選挙で政敵、野中広務・自民党元幹事長の後継者を破り、念願の国政進出を果たした。だが、衆議院議員として中川が大成することはなかった。連載『農協の大悪党 野中広務を倒した男』の#16では、小泉純一郎が進めた構造改革の揺り戻しが起こり、中川ら小泉チルドレンが永田町で孤立していく過程を明らかにする。(ダイヤモンド編集部 千本木啓文)

野中の大物秘書を引っこ抜くも
使いこなせず、支持者は離反

 郵政選挙から10日後の2005年9月21日、中川泰宏は一張羅のスーツを着て国会に現れた。議員バッジを着け、「中川泰宏」と書かれたボタンを押す初登院のセレモニーを済ませると、すぐに記者たちに囲まれた。郵政選挙で郵政族のドン、野中広務の後継者を破って勝ち上がってきた中川は時代の寵児だった。

「私たちはいま時代の変革期に立っている。(中略)現実に合わなくなった旧来のシステムを変える勇気が問われている。族議員、官僚主導システムも高度成長にはそれなりに合理的なものでした。(中略)従来のシステムは既得権益を守る手段となっています。このままでは日本の未来は暗いものとなる。行動を起こす時です」

 中川は記者らの前で一席ぶった。小泉チルドレンらしい演説であり、構造改革を行う決意に満ちている。実際、当時は国民から支持される政治姿勢だった。

 地元京都でも中川は一定の求心力を持っていた。野中派の議員らの一部が中川派にくら替えしたのだ。野中が京都府副知事から衆議院議員に転じてから20年超にわたり続いた野中一強の政治状況はさすがに長過ぎ、世代交代を求める声は少なくなかった。派閥政治や既得権益との癒着といった古い政治のイメージが野中には付きまとっていた。

 中川派に乗り換えたある地方議員は、「野中は自分を超える可能性がある若手を抑え込んできた。唯一、つぶされなかったのが中川だ」と打ち明ける。

 野中との対立軸を鮮明にすればするほど、アンチ野中の支持が集まることは中川も意識していた。大下英治の著書『野中広務 権力闘争全史』でこうコメントしている。

「自分が野中さんに歯向かっていたことによって周りから気骨のあるやつとして信頼されたところもあったと思う。ある意味では、野中さんに感謝せなあかんと思っているよ」

 中川が反野中の声を掘り起こし、結集していけば、中川は京都の政治を変えられるかもしれなかった。