農協の大悪党#19Photo:Kyodonews

JAグループ京都会長で、小泉チルドレンだった中川泰宏は総選挙で2連敗した後、京都を牛耳る陰のフィクサーとして再出発したが、子飼いの政治家が地方選挙で連敗するなどうまくはいかなかった。だが、2018年に政敵である野中広務が死去するのと前後して地元の首長選挙に連勝し、反撃ののろしを上げる。連載『農協の大悪党 野中広務を倒した男』の#19では、中川が、農業団体や福祉法人といった地域の中核組織を次々と野中陣営から奪取するまでの内幕を明らかにする。(ダイヤモンド編集部 千本木啓文)

子飼いの首長に圧力をかけさせ
野中兄弟から福祉法人を奪取

 自民党幹事長や内閣官房長官を務めた野中広務は2003年に政界を引退するが、その当時から地元京都を牛耳ろうとする中川泰宏に対して並々ならぬ警戒心を持っていた。

 象徴的なエピソードとして、野中が政界引退後、地元京都に帰って「一農家」に戻ろうとしたという事実がある。実家はもともと農家だったが、政治家になった野中は農業に目もくれなかった。その野中が77歳になって初めて側近に「南丹市に借りられる農地はないか、探してくれ」と指示したのだ。

 野中は「俺も農家だから農業委員などの役をやるんだ」と話していた。野中には危機感があった。中川は当時からJAグループ京都の会長として農協界を支配していたが、「このままでは農業委員会など農協以外の団体まで中川の意のままになってしまいかねないと考えていた」(野中の側近)。

 野中は03年から12年間、農業土木の全国組織である全国土地改良事業団体連合会(全土連)の会長を務めたが、その動機の一つには「全ての農業団体を中川の思うがままにはさせない」(同)という強い対抗意識があった。

 全土連会長退任後も、野中が京都府の土地改良事業団体連合会の会長を降りなかったのは、「中川の勢力拡大を食い止める防波堤になるためだった」(前出とは別の野中の側近)とみられている。

 しかし、さすがに寄る年波には勝てなかった。野中は18年1月に死去する。その前後に、長らく野中陣営が押さえていた地元首長のポストを中川陣営が奪取した。これによって中川は小泉チルドレンとして活躍した時代に次ぐ、第二の黄金期を迎えることになる。