JAグループ京都会長の中川泰宏は国政に進出しようとしてきたが、政敵の自民党元幹事長、野中広務に阻まれ続けていた。だが、2005年にチャンスがやって来た。当時の首相、小泉純一郎による「郵政選挙」である。中川はこの機を逃さず刺客として野中の後継者に挑み、156票の僅差で衆議院議員の座を射止める。連載『農協の大悪党 野中広務を倒した男』の#15では、師弟関係だった中川と野中の力関係が逆転した場面に迫る。(ダイヤモンド編集部 千本木啓文)
野中は自民党府連が中川を支援するなら
京都1区から出馬すると啖呵を切った
2003年、野中広務は政界を引退した。野中自身は国会議事堂に雷が落ちたのを天啓のように感じたことが引退のきっかけであると語っているが、実際は政敵である小泉純一郎との戦いで刀折れ矢尽きたからに他ならなかった。
野中は同年9月、小泉の首相続投を阻止しようと政治生命を懸けて自民党総裁選に臨んだ。しかし、仲間であるはずの平成研究会の有力者(当時の参議院幹事長の青木幹雄や同派閥会長代理だった村岡兼造)が次々と小泉陣営に取り込まれていくのを見て、自らの政治力が衰えていることを認めざるを得なかった。
地元京都における権力基盤の継承もうまくいかなかった。野中は政界引退を発表した際、77歳だったが、「その年になるまで本人自身が最前線で戦っていたため、後継者候補となる後輩らが修羅場を経験できず、後進が育っていなかった」(自民党関係者)。
野中の地盤である京都4区の後継者を誰にするかは自民党関係者にとって悩みの種だった。野中の長女を推す声もあったがたたき上げの政治家である野中は従来、世襲に否定的だった。
ある側近は「野中の長女は政治家の資質があった。シンプルに世襲していれば中川泰宏に好きなようにはさせなかっただろう。だが、野中は娘に継がせたがらなかった。自分の子や孫にまで中川と戦うリスクを負わせたくなかったのかもしれない」と悔しそうに語る。
結局、亀岡市長を務めていた田中英夫が後継指名を受け、京都4区を引き継いだ。田中は03年10月の衆議院議員選挙で難なく当選したが、これは田中にとって苦難の始まりにすぎなかった。
田中は05年に衆議院本会議での郵政民営化法案の採決で反対票を投じたため、同年の衆議院議員選挙(いわゆる郵政選挙)で自民党公認を得られなかったばかりか、党本部から刺客を立てられてしまう。
その刺客こそ、1998年の参議院議員選挙における自民党公認候補の選定で野中から排除されて以来(詳細は本連載#14『野中広務に「農協界のドン」が反逆した最大の理由、“京都政界”権力抗争の修羅場』参照)、逆襲の機会をうかがっていた中川だった。