東京のアパレル企業で働くアキモト・ヨウイチさんの給料は、入社した5年前からほとんど上がっていない。世界の他地域で賃金上昇が加速する今も、アキモトさんはこの状況が変わるとは思っていない。

 「僕はまし。まだ雇ってもらっているからいいのかな」と言う。「会社はもうかっていない。賃金が増えないのは当たり前だと思う」

 米国の労働者は30年ぶりの大幅な賃上げを経験し、英国では賃金の伸びがインフレ率を上回っている。一方、アジア太平洋地域の経済大国の一部では、従業員が逆の経験をしている。多くの場合、仮に賃上げを勝ち取ったとしても、消費者物価の上昇分をカバーできるほど給料が上がることはない。

 世界経済が新型コロナウイルスの大流行から回復しつつある中、この著しい相違は、各国の中央銀行が物価圧力の高まりに対し、利上げなどの金融引き締め策をいかに迅速に実行できるかにも影響を及ぼす。

 米国では、7-9月期の賃金が前年同期比4.2%上昇し、1990年以降で最も大幅な伸びを示した。幅広い業種で人手不足が発生し、雇用主に賃上げを促したことが背景にある。企業は労務コスト上昇を顧客に転嫁する傾向があり、これがインフレを加速させ、10月の消費者物価指数(CPI)上昇率は31年ぶりの高水準を記録した。インフレ高進のために、米連邦準備制度理事会(FRB)がコロナ下で導入した金融緩和策からの出口戦略は一段と複雑さを増している。

 対照的に、オーストラリアの賃金上昇率は、同国中銀が利上げ開始の目安とする年率3%を下回ったままだ。同国の政策金利は目下、過去最低の0.10%に据え置かれている。一方、日本の平均賃金は2020年に約440万円と、30年間でわずか4%の上昇にとどまっている。

 米国で賃上げを促す「逆風」の多くがアジア太平洋にも吹きつけている。 サプライチェーン(供給網) の混乱で製造業の原材料費が上昇し、輸送費の上昇によって輸入品が割高になっている。世界的な景気回復に伴う石油需要の増大を受け、エネルギー価格は高騰している。建設や医療などの業界は、労働者不足が深刻だという。

 コロナ変異株「オミクロン」の出現は、サプライチェーンをさらに混乱させ、これらの圧力を強める可能性がある。すでに一部の国々は渡航規制を再び発動し、国境の往来再開を遅らせている。

 一方で、政策担当者は、米国に比べて日豪両国の賃金が伸びない一因として労働参加率の違いを挙げる。これは16歳以上の人口のうち就業中または求職中の人々が占める割合だ。

 コロナ禍が始まって1年半以上経過したが、米国では依然として約 430万人の労働者が仕事に復帰していない 。米国の労働参加率は9月時点で61.6%。コロナ流行前の2020年2月には63.3%だった。これに対し、オーストラリアでは今年、労働参加率が過去最高の66.3%に達した(6月に感染力の強い「デルタ株」が急拡大し、シドニーにロックダウンが導入される前の時点)。

 「日本を含むアジアの複数の国で見られることだが、パンデミック(コロナの世界的大流行)期間中も労働者は職場を離れず、労働参加率は過去最高に近い水準を保っていた」。オーストラリア準備銀行(豪中銀)のフィリップ・ロウ総裁は、最近のインフレ動向に関する講演でこう述べた。

 オーストラリアでは新型コロナの感染者が約21万人、死亡者が2000人余りなのに対し、米国では感染者が4800万人、死亡者が78万人を超えている。感染者数が比較的少ないため、オーストラリアの人々は、特に顧客との対面が必要な小売業や接客業などで、仕事復帰への不安が抑えられたのではないかとロウ氏は指摘。また米国の場合、学校閉鎖によって労働者の復帰が妨げられた面があるとも述べた。

 豪資産運用会社AMPキャピタルのチーフエコノミスト、シェーン・オリバー氏は、諸外国より比較的高い最低賃金や、640億ドル(約7兆2400億円)の賃金助成制度などコロナ禍の初期に政府が打ち出した人員削減防止策が、同国の雇用を維持する(少なくとも求職し続ける)のに一役買ったのだろうと述べた。

 欧州では、雇用喪失を食い止めるコロナ対策によって労働者の一時帰休が広がるなどしたため、賃上げを抑制する原因になった可能性があると、一部のエコノミストは言う。

 欧州の統計機関は7-9月期の賃金データをまだ公表していないが、足元で明らかになった賃金交渉を見る限り、物価が急上昇する一方で、大幅な賃上げは実現していないことがわかる。多くの賃金交渉は年初の数カ月に行われる。エネルギー価格に起因する物価の大幅上昇を受け、労働者は実質所得を守ろうとするため、賃金は上がるはずだと一部のエコノミストはみている。

 「インフレと交渉で勝ち取る賃金水準に時間差があることを考えると、まだそれが始まっていないのだろう」。BNPパリバの欧州チーフエコノミスト、ポール・ホリングスワース氏はそう指摘する。「実際、来年半ばにどうなっているか、本当に影響が波及し始めるのかどうかを注視したい」

パウエルFRB議長は上院公聴会で、引き続きインフレを押し上げる要因や、オミクロン株が経済に与えるリスクについて語った(英語音声・英語字幕あり)

  日本の失業率 は、コロナ禍に見舞われた2020年、前年の2.4%から2.8%に上昇した。だが米国に比べれば、この水準は低く、変化の幅もはるかに小さい。米国は流行の初期段階で失業率が10%超まで急上昇し、2020年10-12月期にまだ6.7%の水準にあった。

 日本では賃上げより雇用の安定が重視されるが、それは30年前の経済バブル崩壊後に労使両方に植えつけられた考え方だと、日本総合研究所のエコノミスト、石川智久氏は述べている。

 岸田文雄首相は、9月に行われた自由民主党の総裁選で、給与の大幅引き上げを選挙戦の公約に掲げていた。だが当選後、この方針はすでに立ち消えになったようだ。

 「やれるものなら、やれよと。ぜひやってくれと(首相に)言いたい」。飲食店で時給1350円のアルバイトに従事するシラツチ・シュウさん(28)はこう語った。コロナ前に比べてシフトが7割に減ってしまい、経済的に苦しい状態だという。

 日本人は欲深く見えるのを嫌う文化のため、賃金交渉をためらいがちだと企業コンサルタントは言う。転職・求人サービスを手掛けるリクルートが2020年に行った調査では、日本人の62%は入社時に賃金交渉をしなかったが、米国人の大半は賃金交渉を行ったという。

 だが、賃金上昇を妨げているのは文化だけではない。石川氏によると、何年も前から個人消費があまり伸びておらず、これが賃金低迷と表裏一体の関係にあるという。

 厚生労働省のデータによると、日本では労働組合の30%以上が今年、賃上げ要求を見送った。一方、オーストラリアの労働市場ではあつれきが生じる兆しが見られる。豪物流企業トール・グループが運営する国内7カ所の配送センターの労働者は先月、2日間のストライキを経て、年3%の賃上げを3年間実施するという合意を勝ち取った。

 労働者が大幅賃上げを実現できるかどうかは、コロナ感染者数を低く抑えてきた国々が、いかに早く国境を再び開き、移民を受け入れるか次第で決まるかもしれない。外国人労働者が流入すれば、賃金の伸びに下降圧力がかかる。

 オミクロン株の影響で、すでに往来再開の計画に遅れが生じている。オーストラリアは11月29日、ワクチン接種を完全に済ませた高技能労働者への入国制限解除を2週間延期することにした。新たな変異株を理解するために時間が必要だと判断したためだ。同日、日本は出張者を含む外国人の入国を年内は停止すると発表した。

 オーストラリアの外国人労働者は、コロナ前には約50万人に上ったが、現在は9万人弱に減少したとHSBCホールディングスの豪州担当チーフエコノミスト、ポール・ブロクサム氏は話す。

 日本総研の石川氏は、人手不足が顕在化し、日本の賃金は近い将来、上昇すると考えている。ただ、高齢者介護や農業に従事することが多い外国人労働者にとっては、日本のこれまでの賃金状況が障害になる可能性がある。日本で働く外国人労働者の多くは、中国やベトナム、フィリピンから来ている。

 さらに石川氏は、日本の物価の低さもそろそろ限界に来ていると話す。

 外食チェーンを展開する松屋フーズは、主力商品の牛丼を9月末に19%値上げし、380円とした。3年前の30円値上げで顧客離れが起きた同社は、値上げのタイミングを慎重にうかがい、緊急事態宣言の解除に合わせた。

 「お客さまはコロナ前のレベルに戻ってきた」と同社の広報担当者は述べた。賃金に関しては「上がってもないが、下がってもない」。

LOREN ELLIOTT/REUTERS シドニー空港でコロナ検査に並ぶ旅行者の長い列(11月29日)
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