うに,北三陸ファクトリー画像提供:北三陸ファクトリー

JR東日本に入社後、『ecute』プロジェクトを立ち上げ、「エキナカ」の文化を定着させた鎌田由美子氏。サーキュラーエコノミー(循環型経済)の観点から地域の1次産業を見つめる鎌田氏が、現代人のライフスタイルにおいて大きなポテンシャルを感じているのが「地域の1次産業×サスティナブルなものづくり」です。今回の対話の相手は、岩手県の北三陸、洋野町で水産ベンチャー「北三陸ファクトリー」を創業した下苧坪之典代表。洋野町には世界唯一の「うに牧場」があります。ここでつくり育てられたウニを武器に海外展開を目指すだけでなく、日本の水産業のリブランディングやカーボンニュートラルに関する取り組みを行う下苧坪氏に、水産業の未来についてお聞きしました。前後編に分けてお届けします。(構成/ダイヤモンド社編集委員 長谷川幸光)

北三陸の小さな町に存在する
世界唯一の「うに牧場」とは?

 岩手県の「北三陸」。洋野町、久慈市、野田村、普代村の三陸沿岸を合わせた地域の呼称だ。NHKの朝ドラ「あまちゃん」の舞台が架空の町「北三陸市」であったことから、北三陸の知名度は全国で一気に広まった。

「あまちゃん」のロケ地は久慈市だが、そこから車で40分ほど沿岸沿いに北上したところに洋野(ひろの)町がある。江戸時代は八戸藩領であり、その後、8つの村が合併して現在の洋野町となった。それゆえ、各地域の人と生活が交流し、交通や流通網が発達したこともあったが、災害や飢饉、少子・高齢化、それらに伴う人口流出によって、かつてのにぎわいの姿は消えかけている。

 そのような洋野町だが、世界に例を見ない特殊なエリアがある。それが太平洋に面した海岸につくられた「うに牧場」だ。昆布が生い茂る広大な岩盤地帯にウニが「放牧」されているため、このように名付けられた。

 その名付け親が、洋野町で水産ベンチャー「北三陸ファクトリー」を創業した下苧坪之典(したうつぼ・ゆきのり)氏だ。下苧坪氏は、カーディーラーや生命保険の営業を経て、2010年に水産業へ「新規参入」した異色の経歴を持つ。「北三陸ファクトリー」での水産加工業のほかにも、北三陸の食のブランディングに取り組む「北三陸エクスペリエンス」の立ち上げや、サスティナブルな水産業を目指す養殖事業への挑戦など、意欲的な挑戦を続けている。次第にその活動は地元の漁師や加工業者のみならず、研究者や大企業を巻き込んでの大きな渦となり、SDGsやサーキュラーエコノミーの重要性が世界中で高まる中、水産業の未来を占う取り組みとして大きな期待を寄せられるようになった。

「ジャパンローカルのポテンシャルというのは、実は都市部のビジネスパーソンのかたたちがもっともっと引き出せるのではないかと思っています」と語る下苧坪氏に、水産業の未来について聞いた。

生命保険の営業マンが一念発起
水産業の未来のために起業した理由

――コロナ禍で特に困っていることは何でしょうか?

鎌田由美子氏鎌田由美子(かまだ・ゆみこ)
ONE・GLOCAL代表。1989年、JR東日本入社。2001年、「エキナカビジネス」を手がけ、「ecute」を運営するJR東日本ステーションリテイリング代表取締役社長に就任。その後、JR東日本の本社事業創造本部で「地域再発見プロジェクトチーム」を立ち上げ、地産品の販路拡大や農産品の加工に取り組む。2015年、カルビー上級執行役員就任。2019年、ONE・GLOCALをスタート。近著に『「よそもの」が日本を変える』(日経BP)。 Photo by Teppei Hori

下苧坪之典氏(以下同) これはもう日本全国、そして海外も共通していることと思いますが、やはり水産物がなかなか出荷できないことですね。(緊急事態宣言で)飲食店の自粛や休業が続いたりして行き場がありません。

 ウニひとつとっても、飲食店へ出荷できない。そのような状況の中でどのように一般のお客様にお届けして食べてもらえるか、これは本当に課題です。この課題をクリアしないと、私たち仲介業者は漁師さんから買うことさえできない。何とかしないとと、今、D2C(Direct to Consumer/消費者直接取引)の仕組みを早急に整えています。

――下苧坪さんはもともとサラリーマンをされていたんですよね?

 はい。私の曽祖父は干しアワビを香港に輸出するなどして生計を立てていまして、祖父や父も水産加工の会社を営んでいました。当時はかなりもうかっていて、私が小学校の時はヨットの上で皆でBBQをしていた記憶があります。

 でもバブルがはじけたあとは、いつの間にか会社の規模も一気に縮小して、中学校ぐらいの時はだいぶみじめな生活をしました。ですので、私は大学卒業後はサラリーマンになりました。デスクワークがあまり得意ではなかったので、ディーラーで車を売る仕事をして、その後は生命保険会社に転職して保険の営業をしました。

――それがなぜ、水産加工の会社を始めることになったのでしょうか?

 初めはまったくそのつもりはありませんでした。