「学校では、塾通いを隠し、やったふりをしろ」が問題の原点

 日本を動かしている政治家、官僚、財界人は、今の日本のキャリアシステムの頂点に君臨している人たちだ。

 例えば、岸田文雄首相は「開成閥」とされている。開成高校の同窓である官僚、財界人が首相の脇を固めているというのだ。また、世襲議員や官界・財界の「麻布閥」が存在するともいわれてきた。

 だが、このキャリアシステムが生み出したものは、「誰も結果を出そうとしない」社会だ。結果には「責任」が伴うが、それを嫌がり、誰も責任を取らない社会となっている。

 まず、「受験」から考えてみたい。中学・高校・大学の「受験」は、学校の外部にある「塾」に通わなければ合格が難しい。学校で学ぶだけでは、難解な入試問題が解けないのだ。

 私は子どもがいるので実際にみたことだが、親が子どもに「塾のことを学校でしゃべるな」という。学校の学びは塾より遅れていることが多く、子どもはすでに塾で学んだことを隠して、学校で勉強を「やったふり」をする。

 運動会、学芸会などの学校行事も、受験勉強の妨げにならないように「やったふり」をする。親が、子どもをビデオ撮影する「思い出作り」の場となる。

「学校では、塾通いを隠し、やったふりをしろ」という親の教えは、子どもに相当な悪影響がある。これが、「出るくいは打たれる」のを避けて、黙って静かに時が過ぎるのを待つ日本社会の風潮の原点になっていると思うのだ(第56回)。

 これは、学校が「次のステップのためにいる場所」でしかないということを意味している。小学校は中学校の、中学校は高校の、高校は大学のためのステップだ。

 大学も、就職のためのステップでしかない。あくまで「文系」の話と断っておくが、大学入学という「学歴」を得たら、1年生から就活(就職活動)の準備をするという学生が少なくない。

 今の学生は、ゼミも、サークル活動も、ボランティアなど課外活動も、短期留学も、すべて就活のため、「履歴書」に記載するためだけにやっているように感じる。
    
 私は大学で教員をしているが、ゼミやサークルでは「副リーダー」になりたがる学生がいる。履歴書に記載でき、実質的には何の責任がない役をやりたがるのだ。サークルは、4年間活動に没頭するよりも、就活に有利なところに籍を置くことを重視する。海外留学も「履歴書」でアピールできるものだ。短期のものが人気だが、それでは語学力がつかず、異文化も理解できない。