「早稲田大学野球部を正しい姿に戻す」
天命と思い、監督就任のオファーを承諾

 およそ30年続いた「平成」が終焉に向かう18年の晩秋。11月11日だった。

 東京・東伏見の安部寮の講堂に部員105人が集った。翌年1月より正式に母校の監督に就任する小宮山と、野球部員全員との顔合わせである。

「早稲田の野球部員は一般学生とは違う。その自覚を持って行動するように」

 新監督はそう切り出した。

 このとき小宮山は53歳。プロ野球、そしてメジャーリーグのマウンドに立った男が東伏見に戻ってきた。

 小宮山は現役中に母校の大学院で修士号を取得。44歳で現役引退した後、野球解説者として多忙な日々を送っていた。語り口は論理的で平易。広範な野球の知識や試合のポイントを分かりやすく伝えてくれる。民放のワイドショーにも時折顔を見せる。講演依頼も多数あった。

 そんな男が、フルタイムで母校の白いユニホームに身を包む。

 大学野球部の監督は多忙を極める。目配せは多岐にわたり、チームを強くしようと真剣に取り組めば、時間などいくらあっても足りない。早稲田大野球部の監督は早朝から日が暮れた後までグラウンドに腰を据える。練習後1時間は監督室にこもり、今日のレビューを元に明日のプレビューを練る。他に仕事を持ちながらでは務まらない。

 しかも結果が求められる。

 野球部OBからの声援は熱く温かく、そして手厳しい。加えて早稲田愛にあふれたファンも多数。監督の指導法、選手起用、采配の一挙手一投足が注目され、時には批判にさらされる。「あのサングラスは大学野球の監督にふさわしくない」などといった本筋以外の声も混じってくる。出る杭(くい)はさまざまな理由を持って打たれるのである。

 前任の任期が切れるタイミングでのオファーだった。

 監督就任の打診を受けた小宮山は躊躇(ちゅうちょ)なく引き受けた。天命とすら思った。「黙っていられない」という気持ちも強かったのだ。

 推薦理由を16代監督の野村徹はこう語っている。