お読みになればすぐわかることだが、彼の残した名言の数々は、一読して「なるほど」と納得できるような、いわば常識の延長線上にある凡俗な人生訓では決してない。むしろ、時に人を驚かせ、反発を覚えさせ、躓(つまず)かせるような逆説ばかりが並んでいる。だが翻(ひるがえ)ってよくよく考えてみれば、「たしかに、それにも一理あるかな」と認めざるをえなくなる。

 いずれにせよ、禅の公案にも似て、我々の心に静かだが確実な波紋を呼び起こすのである。そうした「驚き」を出発点にして、日常生活の中で感じる様々な困難や課題を改めて考え直すきっかけになることは間違いない。

 賛成、反対、疑問、いろいろな読後感があってよい。何も哲学者や宗教家だけではない、政治家や軍人も、アスリートや芸術家も、キリスト教徒も仏教徒も、そして無神論者も、エピクテトスを読むと、それぞれの立場で何かしらピンと来るものがある。あるいは逆に反発を感じる場合も少なくないだろう。

 そこで芽生えた疑問や洞察を、自分の中で大切に育てていただきたい。もちろんローマ時代に書かれた文章だから、現代から見ると奇妙でわかりにくい風習なども出てくるが、それらは多少の解説が加えられれば十分理解できるはずだ。

 本書は、エピクテトスの言葉に触れて理解を深め、それぞれの人生を少しだけ深く見つめ直すこと、そして人間としてよく生きるとは何なのかを立ち止まって考えていただくために生まれた。「よく生きる」(エウ・ゼーン)というギリシア語は、「幸福に生きる」と置き換えることのできる言葉だ。エピクテトスをはじめ、ストア派が範と仰いだソクラテスは、前399年、死刑判決後に拘留されていた牢獄の中で、ひそかに脱獄を示唆した旧知の親友クリトンの誘いを断り、従容(しょうよう)として死に赴(おもむ)くことになるが、その際の2人だけの対話に「大切にしなければならないことは、ただ生きることではなく、〈よく生きる〉ことであり、しかもそれは〈正しく〉〈立派に〉生きることである」(プラトン『クリトン』48B)という言葉を残している。「よく生きる」とは人生の究極の目的を示唆する言葉でもあり、おそらくその基本的な座標軸は、現代の日本でも変わることはないだろう。

 本書が、読者それぞれの人生を見つめ直すきっかけとなり、そして様々な困難や課題を解決する糸口となれば幸いだ。あるいは、我々が抱えている問題の多くは、積極的に「解決」されるのではなく、まったく違った視点のもとに「解消」されるのかもしれない。

上智大学 哲学科教授 荻野弘之

ダイヤモンド・プレミアム(初月無料)で続きを読む
Amazonで購入