原油開発で
決めた三原則
伊藤忠のガス石油部の担当として高原友生がエネルギー関係の仕事をやっていたのは環境が激変した時代だった。
彼に課せられたのは川上の開発であり、川下の伊藤忠燃料、伊藤忠石油というガソリンスタンド、灯油販売の販売店を活性化させることだった。
後述するが、川中の精製部門への進出、つまり東亜石油への投資は現場からの提案ではなく、伊藤忠社長の越後正一が財界人から頼まれたもので、越後主導のプロジェクトだった。現場からしてみれば乗り気ではない種類の仕事だった。
さて、高原はまず原油開発に手を付けた。
彼はこう記している。
「私は当時、伊藤忠の開発三原則を決めていた。この機運を察して持ち寄られる幾多の案件をふるいにかける基本項目として、第一に必ずマラッカ海峡以東であること、第二は超低硫黄原油であること、そして第三は周辺に必ず出油井(注:石油が出ている油井)があること、とした」(『商戦』)
第一の理由は、中東よりも近い場所の原油を狙うためだ。そうすれば輸送コストを抑えることができる。
第二の理由は、硫黄分(サルファ)が多い原油は亜硫酸ガス(二酸化硫黄)が発生し、大気汚染を引き起こす。できるだけ硫黄分の低い石油を輸入することとした。
第三の理由は、周辺の井戸から石油が出ていれば目を付けた井戸からも石油が出てくる確率が高いということだろう。
1969年、高原以下のガス石油部が社長の越後に提案したのは、インドネシアのジャワ・スマトラ両島にまたがる鉱区に投資する案件だった。
越後は「慎重に研究した」と『私の履歴書』に書いているが、原油開発をやることは決めていたため、すぐゴーサインを出した。
「エネルギー本部から稟議が起こされた。ジャワ海で石油を掘り当てたイアプコ社の利権を取得するため、親会社ナトーマス社と交渉に入りたいとの趣旨であった。慎重に研究し、一年後に交渉を始めたが、難航を極め、戸崎副社長(当時)はこのためサンフランシスコに二週間も滞在して交渉に当たった。
この種の事業は、俗に千に三つといわれるほど危険なもの、方々から数々のご忠告を受けた。しかし、私は石油資源は、日本の国としても、また海外資源の確保を商社の使命と考える当社としても、リスク覚悟で乗り出すべきであるという信念を持っていたので、石油開発公団にお願いした調査結果も参考にし、強引に交渉を続けた。その結果イアプコ社の株式の七%を二千百万ドルで取得し、全体の四〇%の販売権をもらうことで話し合いがついた」(『私の履歴書』)