カール・ベッカー教授カール・ベッカー教授
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「仏教では閻魔(えんま)大王など、人を裁く天がいますし、ヒンズー教ではヤマ神、キリスト教では最後の審判があって、生前の罪を裁くと信じられています。しかし臨死体験者の証言によると、神や仏がその人の過去の行いを裁くのではなく、自分で裁くということが分かります。それは、『懲役何年』などという単純なことではありません。死の淵で人間は、自分がどういう思いで他者に接してきたのか、また自分が行った行為を他者はどういう思いで受け取ったのかを見せられるのです」

 そもそも、人は他者と関係し合って生きている以上、他者に迷惑をかけずに生きることは限りなく不可能に近い。程度の差こそあれ、誰しも一度は他者を傷つけた経験があるはずだ。ではそうした行いに対して、死後に何かしらの報いを受けるのだろうか。これについてベッカー氏は、仏教を開いた釈尊を例に挙げ、以下のように説明した。

「釈尊が自分の弟子に『一生の間、善いことをした人が良い生まれ変わりになるのか。ずっと悪いことした人が悪いところに生まれ変わるのか』と聞かれたことがあります。これに対して釈尊は、その傾向は強いが必ずしもそうとは限らないと答えました。なぜなら、『臨終の念』が次の生まれ変わりを決定するからということなのです。

 釈尊は人の意識や思いには連続性はあるけれど、常に変化していると教えています。例えば、牛乳をかき混ぜると途中からバターになる。でも、いつから牛乳ではなくなり、バターになったのかという境目は明確には言えません。

 人間も同じです。一見、私はベッカーに見えますよね。でも、この体は子どものころから常に変化を続けているし、数十年後に灰になっている。10代に書いた自分の日記を読むと、自分が書いたとは到底思えない内容が書かれています。それくらい、人間は変化するのです」

 一方、死の目前に善い行いをしたからといって、それまでの罪が帳消しになるかといえばそうではない。

「死ぬ直前には、一生の傾向が圧倒的に強く表れる。一方、自己中心的で周囲に迷惑をかけてばかりの人が突然死ぬ直前に利他的になることは確率論として極めてまれではないでしょうか」

 何か過ちを犯した場合、その行為自体は正当化できない。しかし、人間は常に変わり続けていて、死ぬ寸前はいわば人生の集大成。死の間際に自己の人生を振り返った際に後悔のないよう、日々の自分の行いや現在の自分を省みることが大事だということなのかもしれない。