日本住宅公団総裁 加納久朗
 加納久朗(1886年8月1日~1963年2月21日)は、東京帝国大学を卒業後、横浜正金銀行(後の東京銀行で現三菱UFJ銀行)に入行し、国際金融畑で活躍した人物。戦後は多くの事業会社の経営に携わり、1955年に日本住宅公団の初代総裁に就任する。54年に成立した鳩山内閣は、大都市地域において年間42万戸の住宅建設目標を掲げており、それを実現するのがミッションである。

 今回の記事は、加納の同公団総裁就任から間もない「ダイヤモンド」56年7月21日号に掲載されたもの。聞き手は、当時のダイヤモンド社会長の星野直樹だ。星野は、満州国で国務院総務長官に就任、満州国の軍・財・官で強い影響力を発揮した5人「弐キ参スケ」(東条英機、星野直樹、鮎川義介、岸信介、松岡洋右)の一角を占めた人物。ダイヤモンド社創業者の石山賢吉とは満州時代に知り合っている。星野は終戦後にA級戦犯として終身禁固刑となり、巣鴨刑務所に幽閉されたが、その間、石山は書籍を差し入れるなどで親交を続け、釈放された後は会長に招聘した。

 戦後から11年、まさにこの記事が掲載された直前の56年7月17日に、政府は『経済白書』で「もはや戦後ではない」と宣言している。雑誌の制作スケジュールから類推するに、インタビュー自体は「もはや戦後ではない」宣言の前に行われたものと思われるが、当時の日本を覆う空気は、まさに戦後復興が終焉し、次の一歩を踏み出す機運が高まっていたのだろう。

 記事中で2人は、日本経済の今後について雇用拡大と国民生活向上を大目標に掲げている。加納は「よく休める家を提供することは、明日の生産力にどれだけ影響するか計り知れない」と語り、勤労者向け住宅建設に熱意をあらわにしている。「もう少し皆が、明日の希望に満ちて、働けるようにしなければ駄目ですね。それには、今年はその道へ踏み出す絶好機なんだと思う」。

「もはや戦後ではない」宣言の根拠は、55年に1人当たりの実質国民総生産(GNP)が戦前の水準を超えたことにあった。実際、この年から神武景気と呼ばれる好景気が始まり、日本経済は高度経済成長に突入していった。都市部に労働力を供給するための住宅開発が、その下支えになったのは間違いない。日本住宅公団は現在、UR都市機構に形を変えているが、この間の累計建設戸数は150万戸を超えるという。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)

日本経済は拡大か転落かの岐路
欧州への労働力輸出を考えろ

1956年7月21日号1956年7月21日号より

星野 あなたが言っておられる、今年の日本経済は拡大か転落かの岐路に立っている、というお考えには全く同感だ。

加納 私がヨーロッパへ行ってみて強く感じたことは、向こうの繁栄の素晴らしさですね。完全雇用の状態を超して、今や超完全雇用です。そこで最近、西ドイツ(現ドイツ)で、日本の炭鉱作業員を500人招くという。続いてベルギーでも同じことがいわれている。これは非常に結構なことだと思う。

 西ドイツの場合は、18歳から22歳までの独身炭鉱作業員を500人充て、2年間ずつ呼ぼうというのですね。現在、西ドイツでは、独身炭鉱作業員の月収は6万円です。このうち3食付き独身者社宅で洗濯料付きの生活費が月1万5000円です。だから4万5000円余るので、テレビを買ったり、モーターサイクルや自動車を買っている。

星野 日本人が行っても、月の生活費は大体同じでしょう。

加納 そうです。だから日本人炭鉱作業員が向こうへ行った場合、仮に最低2万円月々残ったとして、2年間で48万円を持って帰国できることになる。これは大したものですよ。

星野 私も前からひそかに同じことを考えていたのです。昨春外国雑誌に、西ドイツがイタリアの労働者を輸入するという記事があった。これを読んで日本からも西ドイツへ入ることができると考えた。そこで政府の要路者に、この記事を早速翻訳して送り、ぜひ実行してくれと言った。ところがいずれも、結構なことだと言うだけで真剣に考えないのですね。

加納 実に残念なことだ。政治家はもっと経済に対する勘を働かすべきだ。

星野 そのとき、A君は西ドイツには東ドイツから人が入ってきているから、足りないはずはない、と言う。B君は向こうの大使と話し合ってくれと言うようなわけで、悲観していたのです。ところが労働省の事務官が、非常に熱心に推進したのですね。

加納 本当に親身になって国のためを思う人がいないと駄目だ。