というのも日本電産は、13年にカルソニックカンセイ(現マニエッティ・マレリ)社長などを経験した呉文精を副社長としてスカウトするも、永守の期待に応えられず15年に退社。その後も14年にはシャープ元社長だった片山幹雄を副会長兼最高技術責任者(CTO)として、また15年には日産自動車タイ現地法人の社長だった吉本浩之を副社長として招聘した。吉本については18年6月に、永守から創業以来初となる社長職をバトンタッチされ大いに話題となったが、やはり永守の期待には沿えず20年4月に退任。そして吉本に代わって社長に就いた関は、21年6月にCEOのポストまで譲られたのだが、わずか1年足らずで永守が再びトップに返り咲くことになった。
周囲を驚かせる禅譲をした創業社長が、後継者の仕事ぶりに失望し、間もなく自分が復帰するというパターンは、歴史を振り返っても実に多い。例えばパナソニックホールディングスの創業者、松下幸之助は、61年に会長に就任して第一線から退いたが、その直後に景気低迷のあおりを受けて赤字に転落すると、「非常時には非常時のやり方がある」と64年に営業本部長代行として現場に復帰した。現役を引退して相談役に退いたのは結局、9年後の73年、80歳のときだった。
その他、ファーストリテイリングの柳井正、エイチ・アイ・エスの澤田秀雄、ワタミの渡邉美樹など、一度は社長職を後進に譲りながらも、復帰する創業者は枚挙にいとまがない。伯父の御手洗毅がキヤノン創業者の一人であったという意味で、創業家出身の経営者であるキヤノンの御手洗冨士夫も、20年に社長兼COOだった真栄田雅也の退任を受け、現在3度目となる社長を務めている(会長兼務を含む)。
例に挙げた創業者、経営者は誰もが優秀であることに間違いはないが、次代を託す後継者を育てることが経営者の最後にして最大の責任になることもまた事実である。今回は、20年前に「週刊ダイヤモンド」2002年7月27日号に掲載された永守のインタビューを紹介する。当時、永守は57歳。“永守後の日本電産”についての質問には、「『あんたがいなくなるリスクを考えたら投資できへん』と言う投資家もおるわね。でも、そんなに弱い会社じゃない。ミニ永守は結構おる。権限委譲もしてる。売上高1兆円までは、僕がやります」と答えている。ちなみに21年の売上高は1兆円をとうに超え、1兆9181億円。30年度に売上高10兆円という目標を掲げている。
また、ダイヤモンド編集部が行った別のインタビューでは、「65~70歳で後継者に社長のバトンを渡そうと思っていたので、60代の初め頃、2000年を過ぎたあたりから後継者探しを始めました」とも話している(日本電産の豪腕カリスマが語る後継者の条件「リーダーは人心掌握力が全て」)。かれこれ20年以上も続く後継者探し。果たして決着するのはいつのことか。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)
働き抜けば必ず成功する
全ては母親の教え通り
――1日に16時間、年間365日働くそうですね。
朝5時50分に起きて、6時50分には会社にもう着いてますからね。夜、風呂でも、受話器を持たんでもしゃべれる電話で、部下にがあがあやっとる。
僕の予定はそもそも、土日から埋まっていく。日曜日52週のうち35週が社員研修会。残りの土日は日本電産とグループ各社の経営会議。空いているときは海外に出掛ける。
――なぜ、そんなに働くんですか。