石黒俊夫
 今回は、「ダイヤモンド」1952年3月15日号に掲載された石黒俊夫(1892年1月5日~1964年6月15日)の手記を紹介する。同号では、三菱、三井、住友の三大財閥の“生き字引”たちが、創業家との昔話や第2次世界大戦後の連合国軍総司令部(GHQ)による財閥解体にまつわる秘話を披露している。

 石黒は、1917年に三菱合資会社に入社し、三菱銀行神戸支店長を経て、三菱本社で秘書役兼総務部長を務めた人物だ。三菱グループ全体の重要事項を協議する最高機関は、本社の理事長、常務理事、分系各社の社長・頭取などで組織される三菱協議会であるが、その下部組織として「総務部課長打ち合わせ会」があり、三菱本社の総務部長だった石黒は、財閥内の各社に共通の制度、社規、給与などを立案、審議の場を取り仕切る立場にあった。

 当時の三菱本社社長は岩崎小弥太。三菱財閥を創った岩崎弥太郎の弟、岩崎弥之助の長男である。16年に社長に就任した小弥太は、海運業から始まった三菱を、日中戦争、第2次世界大戦を通じた軍需産業の拡大を背景に、重工業を核とした企業集団に拡大させた。

 ところが第2次世界大戦で敗戦し、GHQによる財閥解体政策が始まる。45年11月1日に開かれた三菱本社解散の承認を求める株主総会では、社長の岩崎小弥太をはじめとする取締役理事以上は全員退陣。同日、常務取締役に就任したのが石黒で、三菱本社の清算人に選任され、50年8月までその任に当たった。小弥太は最後まで財閥解体には抵抗したが、退陣から1カ月後の12月2日、大動脈瘤の破裂によって67歳で亡くなった。石黒は「岩崎さんは悶死したなどという人がいるが、それは当たらないと思う。普段から、一度決心して始めたことを、後からぐずぐず言ったり、苦に病んだりするということはなかった人だ」と記している。

 51年9月8日のサンフランシスコ講和条約の締結により、日本は主権を回復、GHQの占領が解けると、財閥系企業は再び結集し始める。今回の記事から約1年後の53年5月に石黒は三菱地所会長となり、「三菱金曜会」を結成した。三菱グループ主要企業の会長・社長の親睦と情報交換を目的とした会であり、現在も毎月第2金曜日の昼食時に、東京・丸の内にある三菱商事本社ビルで開かれている。

 次回も同じ号から、住友7代目総理事である古田俊之助による住友財閥にまつわる手記を紹介したい。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

岩崎家には家憲がない
おかげでGHQから絞られる

1952年3月15日号より1952年3月15日号より

 三菱というところは、ほかの財閥と違って社長は、本当に最高の権限をもって裁断を下していった。ほかのところのように、合議制であったり、あるいは、各家にお伺いを立てなければ解決しないというようなことはなかった。そうかといって、必ずしもワンマンというわけでもなく、やはり、非常に周密な考慮を払って事を処していたようである。

 例えば、岩崎小弥太さんなども、大事なことは必ず、前社長の岩崎久弥さんに相談するし、また各部門に対しても十分な議論を尽くさせる。そして、いったん決まったら直往まい進する、というやり方だった。岩崎(小弥太)さんのように40年間も副社長、社長をやっていると、各部門のいままでのいきさつから、何から何まで全て知っていた。だから、各分系会社の重役は全く歯が立たない。本当の統括もできたわけだ。

 経営に対する岩崎さんの考え方というものは、われわれは三菱という一つの団体によって、国家、社会から産業生産をお預かりしているというのである。仕事は、全て私を考えずに国利民福のため公に殉ずるという、いわゆる奉仕の大義を第一義としていたのである。利潤を追うだけの経営というものは永遠の策ではない。国家、社会のためになるというところに重点を置いた経営でなければならない。こういう考え方で始終導いてきたのである。それで、普通のところでは手を付けにくいというような仕事でも、国のために必要であれば敢然として進んでいったわけである。