80年代後半~90年代の一時期は、1日40組以上の団体観光客を受け入れたこともあるというほど活況を呈した。1997年の香港の中国返還、2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)なども乗り越えたが、現地の報道によれば、13年頃から経営が傾き始めた。19年に起きた反政府デモにより観光客数が減少したことでさらに経営が悪化、20年からの新型コロナウイルスの感染拡大が決定打となって、同3月に営業を停止した。

 香港政府は復活計画を発表し、香港島にある海洋公園(オーシャンパーク)に寄贈するという案もあったが、維持・補修費に年間数百万香港ドル(1ドル=約17円)もの経費がかかることなどがネックとなり、引受会社を見つけることができず、結局、同案は頓挫した。

 その後も複数の企業への譲渡案が浮上したが、合意には至らず、所有会社である新濠国際発展(メルコ・インターナショナル・デベロップメント)は先月、海事ライセンスが期限を迎える6月にジャンボを移動させると発表していた。

 一部報道ではいったん別の停泊場所に移動し、そこで新しい運営会社が決定するまで待つという話だったが、えい航されて5日後の6月19日、南シナ海で転覆し、沈没した。

40代後半以上の日本人にとって
“古きよき香港”の象徴だったジャンボ

 最終的に沈没するという悲しい末路となったニュースは香港市民の間で「まるで香港の未来を暗示しているかのようだ」と衝撃が走ったが、ジャンボが香港を去るというニュースは、日本のネットニュースなどでも大きく報じられた。40代後半以上の日本人にとってジャンボは海外の一レストランでありながら、香港旅行の思い出と重なり、古きよき香港のノスタルジーに浸れる場所だと思う人が多いことも関係しているだろう。

 SNSやニュースのコメント欄などに書き込まれたジャンボに対する多数のエピソードが、それを物語っている。例えば、以下のようなコメントがあった。

「80年代後半、初めての海外旅行が香港経由で中国の桂林に行く団体ツアーだった。ジャンボをはじめ、香港のきらびやかなネオンや混とんとした雰囲気が忘れられない。中国への返還前、あの時代の香港がいちばん美しく輝いていた」

「会社の社員旅行のツアーに参加し、ジャンボで食事した。巨大なジャンボを目指して渡し舟に乗ったときはワクワクドキドキ、胸が高鳴ったのを覚えている。潮の香りや湿気が心地よく、香港に来たんだと実感した」

 こうした多くの人のエピソードに共通しているのは、団体ツアーなどで初めて訪れた外国が香港であり、鮮烈な印象を残したという点だ。

 日本人の海外観光旅行は70年代から本格的に始まり、85年のプラザ合意以後、急激な円高とバブル景気の追い風を受け、香港や韓国、台湾など近距離の国・地域を格安の料金で旅行する人が増加。1990年、海外旅行をする日本人は年間で1000万人を超え、増加傾向は90年代後半まで続いた。

 中でも、香港はバブル時代の日本人の“爆買い”を象徴するような場所だった。90年代半ば、筆者は香港に住んでいたが、当時、香港の老舗高級ホテルとして知られるペニンシュラホテルに行くと、アーケード内にあるルイ・ヴィトンのショップ前には大勢の日本人が長蛇の列をなし、バッグなどを大量に購入している光景が頻繁に見られた。

 その頃、香港の定番のツアーコースといえば、ジャンボのほか、「女人街」「バード・ストリート」「スタンレー・マーケット」などであり、日本人の旅の目的はショッピングとグルメだった。