電力の鬼・松永安左ヱ門
 1875年、長崎県壱岐島に生まれた松永安左ヱ門(1875年12月1日~1971年6月16日)は、89年に慶應義塾に入学、福沢諭吉から直接薫陶を受けるとともに、諭吉の娘婿・福沢桃介との縁を深め、共同で福松商会を創業する。さらに2人は福岡県で電力事業と鉄道事業を展開する九州電灯鉄道を創設。同社は合併を繰り返して拡大を続け、最終的には九州から四国、関西、中部地方までを供給エリアとする東邦電力と社名を変え、当時の「五大電力」と呼ばれる存在となる。松永は社長として権勢を振るった。
 
 第2次世界大戦中は国家総動員法の下で電気事業が国家管理となり、松永は一時、現役を離れるが、戦後は復興を支える文字通りの原動力となる電力事業の発展のために、再び表舞台に立つ。当時の首相、吉田茂が設置した電気事業再編成審議会の会長として、電力事業の再建にまい進、「電力の鬼」の異名を取った。
 
 戦前戦後を通じて、「ダイヤモンド」誌にはインタビューやエッセーの連載など、松永は数多く登場する。今回紹介するのは1959年1月1日号に掲載された「亥年の長老・耳庵新春縦横談」と題された談話記事。耳庵というのは、還暦を迎えてから茶の湯を始めた松永の宗号だ。この年、松永は84歳となり、亥年の年男だった。
 
 戦後の経済復興における松永の問題意識の一つは、都市と地方の格差にあった。記事中でも東京への人口集中を大いに懸念している。特に北海道や東北地方をはじめ、未開拓の広野を国有化し、共同公社のような組織で開拓に当たるという案を開陳している。こう聞くと、共産主義のコルホーズ(集団農場)と誤解しそうだが、松永は似て非なるものと説明する。松永がイメージしているのは、米国のテネシー川流域開発公社(TVA)である。フランクリン・ルーズベルト米大統領が33年、世界恐慌を克服するために行ったニューディール政策の一環で実施した大規模公共事業だ。自由主義の国である米国が、テネシー川流域の農業開発と工業化をなし得たとして、それを模範に秩序化された総合開発を行うべしと説いている。
 
 これらの政策提言はダイヤモンド誌上だけでなく、松永が創設した電力中央研究所内に、個人で立ち上げたシンクタンク「産業計画会議」を通じても積極的に行われた。政財官学各界のそうそうたるメンバーで構成する産業計画会議は、56年から68年にかけて16本の政策提言を発表。専売公社の廃止、国鉄の民営化、高速道路の整備など、多くが後に実現している。まさしく日本の近代化を推し進めた立役者といって過言ではない。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

中央集中化で
日本は脳溢血症状

1959年1月1日号1959年1月1日号より

 日本の戦後の在り方で、一番問題なのは、中央集中化の傾向である。これを何とかせねばならない。ソ連では、フルシチョフが地方への分散化をやり、米国でも地方分散化の傾向が表れている。

 TVA(テネシー川流域開発公社:フランクリン・ルーズベルト米大統領が世界恐慌を克服するために行ったニューディール政策の一つとされる公共事業)などがそれだ。カリフォルニアの砂漠も、フーバーダムの工業用水で開拓され、工業地が東部から西部へ移っている。

 ロサンゼルスからオークランド方面の繁栄は、工業の発達によるものだ。

 飛行機工業は、自動車に代わる工業だが、その工場がほとんど全部といっていいほど移っている。