新幹線の高速化が
停滞した三つの理由

 なぜ、新幹線の高速化は停滞してしまったのか。背景には1970~80年代、国鉄と新幹線を取り巻く環境が大きく変化し、速度向上の優先順位が下がっていった事情があった。

 第一の要因は利用者の急増だ。新幹線の利用者は、大阪万博が行われた1970年から、山陽新幹線が博多まで開通した1975年までの5年間でおよそ倍増している。この輸送需要に応えるためには、時速250キロ運転が可能な新型車両の開発より、従来型の車両の増備を優先しなければならなかった。

 第二は環境問題だ。新幹線が高速走行すると、線路から伝わる振動や、レールを走る音、パンタグラフが電線と擦れる音、そこから発生する火花の音、車体の風切り音などさまざまな騒音が発生する。

 東海道新幹線の開業時のダイヤは「ひかり」と「こだま」が1時間に1本ずつだったが、1972年の山陽新幹線開業時にはそれぞれ4本まで増えており、運行本数の増加に伴う沿線の騒音・振動問題は深刻化した。

 この結果、1974年には名古屋の沿線住民が新幹線の運行差し止めを請求する「名古屋新幹線訴訟」が起きている。速度を上げれば騒音問題は悪化する。国家の方針が優先された時代から、個人の権利が擁護される時代へと、歴史は転換しつつあった。

 そして第三の要因は国鉄の財務状況の悪化である。くしくも国鉄は東海道新幹線が開業した1964年に赤字に転落すると、負債が雪だるま式に増加。収支を改善するために運賃値上げを繰り返し、競争力を失っていった。

 同時にモータリゼーションの進展、航空機の大衆化を背景に、鉄道のシェアは1975年をピークに減少に転じる。国鉄にはもはや多額の費用を投じてまで、速度向上に取り組む余裕はなかった。