一代で一流企業を築き上げた創業者、V字回復を果たした中興の祖など、名実を伴った経営トップの後を継ぐ者は、えてして期待を裏切ることがある。

 1990年代、プロクター・アンド・ギャンブル(P&G)は停滞に苦しんでいた。経営陣や現場には成長のS字カーブを右上に重ねていくことが求められたが、思うようにはいかなかった。このような難局に送り込まれたのがアラン・ラフリーである。2000年のことだ。当初は期待外れの人事と揶揄されたが、かつてのポジションを取り戻し、みごとP&Gを再生させた。2009年に社長兼CEOを勇退し(2010年には会長職も辞す)、ボブ・マクドナルドに道を譲った。しかし、彼は周囲が期待するような成果を出せず、2013年、33年間勤めたP&Gを去る。

 ちなみに、経営者育成学校といわれるゼネラル・エレクトリックでも、ジャック・ウェルチ(在任期間20年)、ジェフ・イメルト(在任期間16年)の跡を襲ったジョン・フラナリーが、わずか14カ月で現CEOのラリー・カルプと交替している。 

 このように、カリスマ経営者、名経営者と呼ばれたリーダーが去ると、これまでの成長は止まり、えてして「逆V字」になりがちである。その原因は何か。前任者の見る目がなかったのか、後任の力量不足だったのか、前任者とは別の色を出したかったのか、サクセッションプランがうまくいかなかったのか、ガバナンス不全だったのか、組織文化の問題なのか、はたまた運が悪かったのか等々、あれこれ想像することはできても、核心を突き止め、対策を講じるのは難しい。

 そこで善後策として、彼らカリスマリーダーの再登板という案が浮上する。先のP&Gでは、ラフリーが2013年にCEOに復帰し、事態の収拾と再度のV字回復に尽力した。そのほか、スターバックスのハワード・シュルツ、デル・テクノロジーズのマイケル・デル、ブルームバーグのマイケル・ブルームバーグなどの例が知られている。

 日本に目を移せば、キヤノン、スズキ、ソフトバンクグループ、日本電産、ファーストリテイリングなども、かつての立役者たちがもう一度腕まくりして、経営の現場に復帰している。ある経営学者が、こうした返り咲きの理由を「執着」「この会社は自分のもの」と解説しているが、そういう動機もなくはないとはいえ、帰するところは経営者の使命感ではないか。すなわち、傷口をこれ以上広げるのを防ぎ、一刻も早く元の軌道に戻すために、あえて前線に立っている。修羅場をくぐり抜けてきたベテランリーダーならばわかるはずだが、暗黙知も含めて、その会社における因果律をホリスティックに理解しているため、何をどうすればよいのか、彼らには”見えて”いるのだ。

 ならば、こうした創業経営者や中興の祖ならではの思考回路や行動様式をあらかじめ”移植”しておけば、つまり次世代リーダーの育成を徹底していれば──もちろん時代や社会の変化を踏まえた微調整が必要である──逆V字をある程度回避できるのではないか。実際、ベストプラクティスが存在する。ミスミグループ本社である。

 ミスミといえば、当時の常識を逆転させる経営コンセプトを打ち出した創業者の田口弘氏、そこに田口氏に請われてやってきた、事業再生専門家として著名だった三枝匡氏で知られるが、前述したポスト名経営者問題は顕在化していない。むしろ、進化の跡すら見える。三枝氏が引退した2014年の業績と、現社長を務める大野龍隆氏の2021年のそれを比べると、売上げで約2倍弱、利益で1・5倍と、着実に成長している。

 三枝氏はかねてより、経営者人材の育成こそ日本産業界の課題であると訴え、ミスミ社内のみならず、母校の一橋大学や社外の研修機関で、人づくりの実践的要諦について講義してきた。本インタビューでは、田口・三枝両氏の薫陶を受けた大野氏に、ミスミ3・0について聞く。そこには「青は藍より出でて藍より青し」の予感がある。

始まりはB2B初のカタログ通販

「経営者人材づくり」なくして<br />持続的成長はかなわない<br />ミスミグループ本社 代表取締役社長
大野龍隆
RYUSEI ONO
1987年、三住商事(現ミスミグループ本社)入社。2002年執行役員、2008年駿河精機(現駿河生産プラットフォーム)代表取締役社長、2013年ミスミグループ本社代表取締役社長、2014年代表取締役社長CEO、2020年2月より代表取締役社長となり現在に至る。

編集部(以下青文字):大野さんは、創業者の田口弘さん、中興の祖であり、いまも名誉会長を務める三枝匡さん、その跡を襲った現在カインズCEOの高家正行さんと、歴代社長全員と一緒に仕事をされてきた、言わばミスミの「生き字引」です。

大野(以下略):ミスミの創業は1963年に遡りますが、私が入社したのは1987年で、当時はまだ三住商事と名乗っていました。田口さんは、今流に言えば「ゼロ・トゥ・ワン」の人です。文字通り、無から有を生み出す発想力の持ち主で、たとえばメーカーの販売代理業ではなくお客様の「購買代理業」になるといった、従来の常識を覆すようなコンセプトを打ち出し、実際に現実化させて、独自のポジションを確立しました。

 ミスミは1970年代後半、プレス金型用部品のカタログ販売を日本で最初に始めます。そこには、販売代理ではなく直販に転換する、特注品ではなく標準品を売る、営業職はいらないなど、田口さんならではの考え方があったからです。

 当時の製造業は、完成品メーカーの力が強く、彼らの論理や慣習が幅を利かせていました。ですから、創業期はもっぱらメーカーが製造した金型部品や工具などを販売するのが仕事で、ミスミもメーカーの販売代理店の一つにすぎませんでした。

 ですが、田口さんは「本当のお客様は誰なのか」を自問する中で、購買の最終意思決定者は調達部門ではなく金型設計者であることを突き止めます。そして、彼らの最大の関心事は、価格ではなく、設計と部品の入手がスムーズであること、それはワンストップショッピングであり、注文して即納・短納期してくれることでした。このことを理解していたので、周囲の反対や疑念に惑わされることなく、カタログ販売に踏み出したのです。

 カタログは金型部品からスタートし、その後は自動機用標準部品やFA用加工部品など、範囲を拡大しながら、着実に業績を伸ばしていきました。

 カタログ通販の始まりは15世紀末のイタリアといわれており、日本では明治から通販はありましたが、カタログ通販が本格化したのは戦後からだそうです。その多くはB2C市場で、1970年代ではB2Bは珍しかったはずです。

 B2B通販というと、日本の場合、文房具などの消耗品が浮かんできますが、機械部品は同じように簡単に注文することができません。担当部署の方ならばわかっていただけると思いますが、機械部品の調達は手間暇のかかる仕事です。だからこそ、ここに購買代理店として提供できる価値がありました。

 ミスミがカタログ通販を始めた頃は、値引きが横行しており、価格や納期の交渉が日常的に行われていました。それでも、届くまで2~3週間待たされることがざらでした。また、1個だけ売ってほしいという声もあり、こうしたニーズに応えることは難しかった。しかも、部品の寸法はミクロン単位のものもあり、バリエーションもさまざまで、図面がないと注文できない部品がたくさんありました。PCなどない時代です。金型設計者は手描きで一枚一枚図面を作成します。発注して部品が届くと、まず図面通りに仕上がっているかをチェックし、不具合があれば修正のために、さらに日数を要することもありました。

 このように手間のかかる商売でしたが、ビジネスとして成り立っていましたから、わざわざ標準化するなど、そんな発想はなかったと思います。しかし、田口さんは「MTO」(Make to Order)と呼ばれる共通性の高い半製品の在庫を持ち、この世界に標準化を持ち込み、営業不要のカタログ通販というビジネスモデルをつくり上げました。

 発注元がカタログを見て、部品の寸法などを指定すると、型番ができ上がり、これを注文すれば完了です。カタログのおかげで、多くの部品は図面が不要になりました。また、カタログには価格と納期が記載されているので、無益な交渉もなくなりました。2~3週間が当たり前だった納期は、世紀が変わる頃には3日にまで短縮されました。

 田口さんは、まさにB2Bの世界に流通革命を起こしたわけですね。当時のミスミを分析した『逆転の市場創造』(ダイヤモンド社)によれば、商流と物流を別ルートに分ける「商物分離」、そしてカタログ通販の前提となる「標準化」が口癖だった、と。

 カタログ通販事業では、我々が「オープンポリシー」と呼んでいる水平分業が採用されています。ご承知のように、ものづくりの世界は、バリューチェーンの各機能をグループ全体で運営する垂直統合が主流でしたが、ミスミはその一部だけを担う、いわゆる「持たざる経営」を実践していました。

 これができたのも、先ほど申し上げたMTOを活用したモジュール生産です。この場合、あらかじめブランクと呼ぶ半製品をこしらえておき、カタログを見たお客様が注文を出すと消費地で最終加工を行い、でき次第納品する──。多品種少量生産と短納期を同時に実現させたわけです。受注があって初めて生産するという点では、トヨタ生産方式の一個流しと同じコンセプトです。