ユースからトップチームに昇格できる選手は、どのチームでも一握りとなる。一方で高校卒業後の人生の方がはるかに長いと考えれば、プロサッカー選手を目指しながら、サッカー以外で何をプラスアルファできるかが、多感な時期の子どもたちを預かるチームの義務だと柱谷氏は訴えた。

 柱谷氏自身、J2のモンテディオの監督を務めながらユースチームの整備に苦戦した経験があった。魅力ある育成環境を求めた熱意は京都のフロントを経てトップの稲盛氏に届き、日々の練習に欠かせない照明付きの人工芝グラウンドと選手寮の新設がすぐに決まった。

 育成組織のモデルケースは、地元の広島県立吉田高校とタッグを組んで成功を収めていたサンフレッチェ広島ユースだった。しかし、京都が創設したSAPは、対象となる京都サンガU-18に所属する高校生たちが置かれた環境で前例のない、大きな付加価値がつけられた。

学費も寮費も免除されるアカデミー
立命館大学への内部進学も可能に

 プロジェクトの上限は1学年につき10人。原則として全員が立命館宇治高に入学し、さらに新設された京都の選手寮『RYOUMA』に入寮。入学金と授業料は奨学金として学校法人立命館が、食費を含めた寮費は京セラをメインスポンサーとする京都が全額負担するシステムが作り出された。

 さらに、たとえトップチームへ昇格できなかったとしても、成績次第では立命館大学への内部進学も可能とした。実際に06年の1期生、翌年の2期生は全20人が大学生になった。サッカーで夢をかなえられなかった場合をも考慮して、親が大切な子どもを預けられる環境が整えられた。

 異色のプロジェクトのもとで、選手たちは午後4時半まで立命館宇治高で授業を受け、約1キロ離れた城陽市内の専用練習場へ自転車で移動。約2時間の練習を終えると今度は約3キロ先にある寮へ再び自転車で戻り、専門家によって栄養などがしっかりと計算された夕食を取る日々を送る。

 立命館と組んだ理由は、立命館宇治高が京都のホームタウンの一つである宇治市にあり、かつ進学校でもあったからだ。言うまでもなく立命館へ話を持ちかけ、橋渡し役を担ったのは稲盛氏だった。

 理想として掲げたユース年代の育成環境を、即断即決で作り上げてくれた稲盛氏の行動力に感謝していた柱谷氏は、浦和レッズの強化担当責任者(GM)に就任した10年1月の記者会見で、京都のSAPを取り上げながらこんな言葉を残している。

「おそらく4、5年後、京都はすごくいい選手がトップに上がってくるんじゃないかと思っています」

 理想はもっと早く具現化される。京セラと学校法人立命館、そして京都サンガの「産・学・民」が三位一体となったプロジェクトから、11年に初めて出たプロ選手が前出の駒井だった。

 同期の3人とともに京都へ昇格した駒井はドリブルを武器に、浦和レッズをへて、30歳になった今現在は、北海道コンサドーレ札幌でプレーしている。天皇杯で活躍したルーキーイヤーに取材した時には、スカラーアスリートプロジェクトへ感謝の思いを込めてこう言及していた。

「技術や戦術だけでなく人間性もしっかりとした選手を育てるという方針が、教わっている僕たちにも伝わってきました。常に謙虚であれと言われてきたし、だからこそ試合中に審判に文句を言う選手はサンガでは少ない。不満があっても抑えて、大人のサッカーをするという意味ですね。生え抜きの選手が出てこなかったチームですけど、僕らが切磋琢磨することでチームを底上げして強くしていきたい」

 駒井の1学年下となる久保は、天皇杯で活躍した当時は京都サンガU-18に所属する立命館宇治高の3年生だった。11シーズンのJ2ですでに10ゴールをマークしていた久保は、山口市立鴻南中学を卒業する際に高校サッカーで活躍する道を選択しなかった理由を、次のように語っていた。

「自分はとにかくプロになりたかったので、一番近道に思えたユースチームを選びました」

 高校卒業後の12年から正式にプロ契約を結んだ久保は、翌13年6月にはヤングボーイズ(スイス)へ移籍。SAPが送り出した初の海外移籍選手となり、ヘント(ベルギー)、ニュルンベルク(ドイツ)をへて、今現在はシンシナティ(アメリカ)でプレーしている。日本代表としてもハリル・ジャパンで重用され、13試合に出場して2ゴールを挙げている。

 15年6月には同じくSAP出身のFW奥川雅也が、プロ契約を結んでからわずか半年でザルツブルク(オーストリア)へ移籍。今シーズンはドイツ2部のビーレフェルトでプレーしているが、チームが1部を戦った昨シーズンは8ゴールを挙げている。

 久保とともにSAPの成功例となっている奥川は、J2での成績が出場わずか5試合、1ゴールでヨーロッパへ旅立った時にこんなコメントを残している。

「クラブへ恩返しをする前に自分のわがままで移籍をすることになりますが、将来、自分がヨーロッパで活躍し、日本を代表するような選手に成長することで、少しでも恩返しができればと思います」

 曹監督が言及した「必ずしもハッピーな年ばかりではなかった」は、天皇杯優勝後に3度のJ2降格を喫し、11シーズン以降はJ1昇格へなかなか手が届かなかった苦難の時期を指している。下部組織出身の選手たちがJ2よりも高いレベルを求め、京都から移籍していった間にもSAPの精神は脈々と受け継がれてきた。

 12年ぶりにJ1を戦っている今シーズン。中盤の底、アンカーというポジションを託されている21歳の川﨑颯太もSAPの対象選手であり、立命館大学産業社会学部3回生、2年後のパリ五輪を目指すU-21日本代表にも名を連ねるホープでもある。

 山梨県甲府市出身の川﨑は、小、中学校時代はヴァンフォーレ甲府のアカデミーでプレーしている。しかし、高校進学を控えた時に慣れ親しんだ土地ではなく、たとえ親元から離れてでもハイレベルで厳しい環境で、かつ文武両道で勝負がかけられる環境を希望した。

 複数の候補校の中ですべての条件を満たしていたのが、練習場と選手寮とを完備させていた京都のSAPだった。山口県出身の久保、滋賀県出身の奥川らと同じく府外からサッカーに集中できる環境を望んで京都の一員になった川﨑は、高校2年生の2学期で「オール5」をマーク。「好きな教科は数学。勉強は苦にならないし、むしろ楽しい」と充実感を漂わせたこともある。