──ここまで見てきてわかるのは、大石内蔵助という人はつくづく用意周到で気配りの人でもあったということだ。討ち入りに至るまでの期間、生活に苦しい同志がいると聞くと内緒で金を融通することも珍しくなかったという。17の若さで討ち入り計画に加わった矢頭右衛門七(やとうえもしち)の場合など、母親と幼い妹3人の面倒をみなければならないという彼の境遇を憐れみ、金10両を渡しているほどである。

 討ち入りを決意するまでの内蔵助はまさに昼行燈。特に江戸の強硬派には煮え切らない態度に見え、苛立ちを募らせる結果となったが、いったん討ち入りを決意した後の内蔵助は誰の目にも頼もしく映ったはずだ。

 同志たちは、討ち入った後に食べる餅や蜜柑のことまで頭に入れていた内蔵助の用意周到さに半ば呆れ、半ば畏敬の念を持ち、そのうち「この人についていけば間違いがない」と思うようになったのだろう。赤穂浪士たちはこの内蔵助の気配りと用意周到さがあったればこそ、本懐を遂げることができたのである。