江副浩正さんとの出会いは、岩手県八幡平市にある安比(あっぴ)高原スキー場だった。1964年の東京オリンピックのポスターを手がけたグラフィックデザイナーの亀倉雄策氏に紹介されたのである。亀倉氏は、カモメのイラストが入ったリクルートの初代ロゴを考案した人物であり、江副さんのスキー仲間の一人だった。江副さんは建築やデザインに強い関心があり、私が建築家出身ということもあってか、以来、亡くなるまで交友が続いた。それにしても、彼のスキーの腕前はプロ顔負けのレベルで、大勢のインストラクターたちを従えて、さっそうと滑走してくる姿は圧巻だった。
江副さんの経歴をあらためて振り返ってみると、東京大学在学中に財団法人東京大学新聞社で法人営業に従事し、卒業した1960年、その経験を活かしてリクルートの前身である株式会社大学広告を設立。当時、起業時には、東京大学新聞編集部の先輩であり、森ビルの森稔氏が経営するビルの屋上の仮設小屋を事務所に借りていた。2人とも暇なのでいつも碁を打っていたそうだ。時々雨が漏れてくるので「モリビルだ……」。
大学広告では、大学新卒者向けの『企業への招待』(のちの『リクルートブック』)を発行し、求人広告という分野を大きく成長させると同時に、その隣接分野において就職適性テストや組織コンサルティングをはじめ、リゾート開発や不動産業、汎用コンピュータのタイムシェアリングなど、領域を超えて多角化を進めた。成功もあれば失敗もあった。
私は、江副さんがリクルートの経営から身を引いた後に設立したスペースデザインというディベロッパー会社の社外取締役を務めていたが、こう尋ねたことがある。「在庫を持たないという素晴らしい事業モデルをせっかく発明したのに、不動産のように在庫を抱えて、しかもややこしい商売がどうして好きなんですか」と。すると「結婚した当時、お金がなくて6畳一間の木賃アパートを借りていました。トイレは共同です。その頃は、ちょっとでもいいところに住みたくて、仕事の合間にあちこち歩き回っていました。そうしているうちに空き地を見つけると、こういう建物を建てたらいいんじゃないかとあれこれイメージを思い描くようになったんです」という原体験を話された。私はいま、江副さんの最後の事業であるBUREX(ビュレックス)のオフィスを借りている。
私がこれまで袖振り合った経営者は数多くあったけれども、江副さん、その先輩である森さん、そして大塚製薬の大塚明彦さんの3人は、まさに「考える人」だった。とにかくいつも繰り返し考えていた。現在、県立広島大学のビジネススクールと、10年やって正式には引退したはずの東京大学エグゼクティブ・マネジメント・プログラムに関わっているが、多くの受講生がお題目や常套句を安易に使い、自分の言葉で語らない。したがって、自分が何を知らないか知らないし、深く考えられない。彼らだけに限らない。多くの企業人たちが、DXとかパーパスとか、昔の焼き直しのジャーゴンに疑いもなく飛び付いている。しかし、企業を成長させ、人々を駆動させるには、何より「アスピレーション」(「こうなりたい」という熱烈な願望)が欠かせない。江副さんは、まさにアスピレーションの塊のような人だった。
ただし、アスピレーションは、「賢く」現状維持をする官僚的な組織からは生まれてこない。江副さんは「リクルートの経営理念とモットー十章」を作成し、なかでも「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」と印字された青いプレートを、社員全員の机に置いて回ったそうだが、変化はチャンスであるという考えの持ち主だった。リクルートには実際アスピレーションの高い社員が多かった。だから、さまざまな種類の新規事業が生まれてきたのだろう。
来年(2023年)2月で、江副さんが旅立たれてちょうど10年が経つが、日本において彼のような個性豊かな起業家の登場をあいにく寡聞にして知らない。
表紙イラストレーション|ピョートル・レスニアック
謝辞|本イラストレーションの制作に当たっては、文藝春秋写真資料室にご協力いただきました。